Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

なぜ、智頭に?

hihumi6

鳥取県の智頭町に移住したのは、
3年前の5月。

次男のいたるが1歳になったばかりだったので、
彼は人生のほとんどを鳥取で過ごしていることになる。

鳥取キッズだ。

で。

なんで鳥取に移住したの?

なぜ、智頭なの?

ってよく聞かれるのだけど、
決まってそれは子どものため、
子育ての環境として
しっくりきたからと答えている。

自然が豊かで住む人たちも暖かい。

地域全体で子どもを見守ってくれているような
昔ながらの田舎の暮らし。

これだけだと他の田舎でも同じようなところあるよ?
と言われそうだし、確かに僕もそう思う。

いっしょにプロジェクトをやらせてもらっている
ヒビノケイコさんも

綺麗な自然な風景は3日であきる

みたいなことを言っていた。

どこにでもあるような綺麗な自然。

自然豊かなところで子育てしたいなら
他にもあるのに、なぜ、、、

そんな質問も受けるのだけど、
そこで僕が答えているのが、

森のようちえんがあるから

ってこと。

園舎を持たず、自然のなかで
のびのびと育てるスタイルの森のようちえん。

森のようちえんの発祥はデンマークかな、
北欧の保育スタイルで、
今ではドイツが盛んだったような。

もともと幼稚園のルーツは、
子どもたちを森に遊びに連れて行く
というものだから、そういう意味では
もともとの「幼稚園」に原点回帰している
スタイルとも言える。

無理がないというか、
人間本来にあっているというか、
子どもにしっくりくるというか。

ここで、いちおう僕の意見を書いておくと
都会での生活や保育がダメと
思っているわけではないということ。

都会には都会のよさがあり、
すてきな暮らしがあることも知っている。
(鳥取に来る前はずっと名古屋にいたからね)

だけど、いろいろなことを学び、
自分なりに思うことは、
子どもの小さなうちは、
豊かな自然の環境で子どもの思うままに
過ごすことが(いろんな意味で)大切なことだと
感じている。

都会での暮らしは
もう少し後になってからでもいいんじゃないかな
って。

で、森のようちえんだけど、
確か日本だけで200ぐらいはあったと思う
(正確な数字はうろ覚え)。

その中でも、智頭の森のようちえんは
全国的にもそれなりに知名度が高くて、
視察に来る人も多い。

この智頭の森のようちえんに
入園させたくて移住する人たちも
少なくないし(僕らもそうだし)。

この智頭の森のようちえんは
「まるたんぼう」と「すぎぼっくり」というのがあって、
うちのひふみといたるは、すぎぼっくりに通っている。

すぎぼっくりのいいところは
何と言っても規模感。

少人数なので、密な付き合いができるし、
子どもたちも自由に自分の興味のまま過ごせる。

スタッフの人たちも手厚く暖かく見守ってくれる。

親も当番でスタッフとして入ることもあって、
親子で成長していけるというコンセプトも
気に入っている(僕もたまにはいっしょに登園している)。

先日もひふみの6歳のバースデーを
祝ってくれた。

手作りのほっこりする誕生日で、
彼の一生の想い出になることだろう。

話を戻して、なぜ、智頭にいるのか。

自然豊かな環境ももちろん、
それに加えての森のようちえんという
教育コンテンツ。

もちろん、それ以外にも智頭の魅力はたくさんあるのだけど、
子ども中心の暮らしになってる我が家にとっては、
智頭にいる一番の大きな理由は
やはり「森のようちえん」と言えるだろう。

それでは、最後に園からの便り?
すぎぼっくり便り10月号からの引用を、、、

すぎぼっくりの目指すものを掲げると、最終的に行き着くところは『森で子育て』→『信じて見守る』→『考えて行動する』→『と言いながら結局毎日楽しく幸せに過ごせたらいいんじゃないか』→『ここで過ごしたことが自分への自信となって逞しく成長してほしい』→『最終的に生きることが楽しいと思える人間になってほしい』という構図ができました。すぎぼっくりに子どもを通わせることで、子育てが楽しくなった、自分の世界が広がって楽しくなった、そんな風に思ってもらえることがこの仕事をしていくための大きな目標です。お母さんが毎日楽しく幸せにだと、子どももお父さんも幸せになるんじゃないかなと思います。

すぎぼっくり便り10月号 子どものちから森のちから

秋になって森もまた一段とすてきに。

それでは、今日はこの辺で。

また明日。

島田晋輔

PS)

森のようちえんのサイトはこちら

移住や田舎暮らしに関しては
ヒビノケイコさんのブログが参考になるかも。

ケイコさんのブログはこちら

PPS)

今日の一曲はこんなカバーを、、、

PPPS)

親指シフトトレーニング10日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。

知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、

今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。



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