全10回の西洋思想史セミナー。
3回目のタイトルは
家族という”思想”。
家族というテーマはここ数年、
僕自身関心の強いテーマで、
この前の質問に答えましょうシリーズの
10回目のトピック。
この話は木坂さんと個人的にも
よく話す内容だったので、
背景知識もあいまって
いろいろ楽しめた。
というわけで、
セミナーの復習もかねて
まとめていこうと思う。
木坂さんと結婚や家族について話したことある人ならば、
木坂さんがあまり肯定的な立場をとっていないことを
知っているだろう。
それは結婚制度というよりも、
戸籍制度に疑問を持っているから。
今回のセミナーでも戸籍に関しての話もあった。
管理ツールとしての戸籍は
明治以降、現代でいう「家族」が(突然)関連付けられ
「苗字」が強制された。
国民国家を成立させるための「日本人」をつくるために
「血縁」を根拠につくられたシステム。
民衆を管理するのにどういう定義が
「都合がよいか」は目的によって変わるものであって、
あるエリアによる収穫量と血縁は何の関係もないし、
意味もないということ。
僕らは自然と血縁関係や家の文化、
戸籍制度を受け入れているが、
管理ツールとしての制度であるという
背景を知っておかないといけない。
例えば、マサイ族の結婚初夜権というのは、
親友にあるらしいが、これは彼らのなかでは
普通のことだということ。
花嫁の初夜を親友に、、、
って僕らの感覚では抵抗があるかもしれないけど、
それは「思想」として持っている
(持たされている)だけ。
嫉妬というのは現代特有の感情のようにも
思えるけど、こういったものも社会によって
決められていると言えるだろう。
ここ日本では明治31年式以降は、ボアソナードの影響を受けて、
身分登録制度が新設された。
ただ、、、
個人単位で管理する身分制度と
「イエ」単位で管理する戸籍はバッティングする。
資本主義の発展は家制度では無理があると言った
島田俊雄は、
「民法が予定している家制度は崩れる。今、身分制度を廃止してもまたいつか作る日が来る」
と言ってい他らしい。
しかし、
「個人主義をもう少し減少し、家族主義をもっと際立たせた方が穏当である」
という鈴木喜三郎の発言の紹介にもある通り、
1914年、戸籍法改正で身分登録制は廃止された。
さて、では個人主義とはなんだろう。
個人主義という言葉は、元来、ホッブズなどの説を
「新手の利己主義」として避難・攻撃するために使われ始めたもので、
よい意味を帯びたのは、19世紀から20世紀にかけてのアメリカと
言われているらしい。
実際には、個人主義と利己主義は全く異なるもの。
利己主義:自分の利益のみを重視氏、他人を顧みない(具体的)
個人主義:自由など全ての権利を個人に帰属させる(抽象的)
自分に権利があるのと同様に、
目の前の相手にも同じ権利が存在することを
前提とするのが個人主義であるということを
押さえておかないと。
そして、前回も登場したホッブズ。
ホッブズの主張は、
主権を持つ個人が、その理性の力を頼りに
権力の一部を委譲して国家を形成し、服従する
というもの。
つまり、個人主義は「法の支配」「法治主義」を内包する。
ここからキリスト教と個人主義の話に。
キリスト教、特にプロテスタントは、
神と個人の契約を重視する。
「理性的に判断された規範に従って生きるべき」
というのもトマス・アクィナス以来の伝統。
トマスの学説は元をたどればアリストテレスに
行き着くらしく、トマスの功績としては、
アリストテレスの世界観をキリスト教の思想と融合したところにある
という話があった。
参考にキリスト教の話になって、
キリスト教の強さは世俗化にある、と。
最新のものを取り込んでいく
フットワークの軽さがあるという。
イスラム教にはこれがなく、
未だに1000年以上前の世界を作ろうとしているから、
キリスト教との差はここにあるのではないかと。
よいものや最新のものはどんどん取り込んでいこうという
世俗化は普及させていくのに必要な事だね。
そして、ここで有名なガリレオ裁判の話。
敬虔なクリスチャンであるガリレオは
なぜ有罪担ったのか?
自分の著作と聖書はバッティングするはずはないと思っていたのに。
このガリレオ裁判に関して、
カトリック側として、
見過ごせない問題を2点指摘。
1.ほとんどの著作をイタリア語で書いた
ケプラーやエラスムス、コペルニクスは訓練を積んだ天才しか読めない
ラテン語で書いたのに、ガリレオは大衆でも読めるイタリア語で
書いてしまったという点。
バチカンはエリート主義でバカは知らなくていいこともある
という事もあり、この点は見過ごせなかった。
もう一点は、、、
2.太陽が動かないと主張した
ということ。
この2点はカトリック側では見過ごせないものであり、
ガリレオは有罪判決になったという話があった。
さてさて。
長くなってしまったので、
今日はこの辺にして、
続きはまた明日書こう。
明日は、日本社会と個人主義の話から。
また。
島田晋輔
PS)
今日の一曲はこちら、、、
PPS)
親指シフトトレーニング12日目。
取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。
ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。
取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。
では、さっそく15分のトレーニング開始。
知性の正しい導き方
ジョンロック著
下川潔訳間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)
第一節 はじめに
人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは
今日のトレーニングはここまで!
この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。
すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。
この投稿シリーズ、とても助かりますー。
こんなふうに聴き取れるよう、精進します。
ありがとうございます!
自分なりのまとめなので実際はもう少し違うかもしれませんが、、、そこは配信されるビデオの方で!