10回シリーズの西洋哲学史講座も
いよいよ最終回。
のはずだったけど、
前回の9回目が時間の関係?
ボリュームの関係?かな
で、途中で終わったので
今回は続きから。
9回目の「“差別”を生むもの」だね。
猿と人間、知能と理性や仮説的思考の話から
人間と芸術というトピックのところから。
・遊牧民からは相対的に芸術作品が生まれない
・なぜだろうか
・人はなぜ芸術作品をつくるのか
という問いかけの続きから。
前半の講座には出られなかったので、
受講生に話を聞いて総合してみると、、、
芸術作品は暇つぶしで生まれた。
定住するとヒマが生まれ、
芸術をつくる。
ということだったらしい。
歌や踊りは言語に先立って生まれた
情報伝達やコミュニケーションツールだから
全ての芸術が暇つぶしから生まれたという
わけではないけど、と補足はあった。
ヒマと退屈は本質的に異なる概念で
哲学者たちは一度は取り組むようなもの。
特に、これだけ余る時代では
ヒマや退屈はとても重要ではなかろうか、と。
そこで、ハイデガーを引用しつつ
退屈論。
ハイデガーは退屈の形式を3つに分類して
考察している、と。
1.何かに退屈している場合
2.何かに際して退屈している場合
3.なんとなく退屈している場合
第一形式は何か対象があるというものらしい。
学校の授業が退屈、村上春樹の新刊が退屈、みたいな。
第二形式は、ピンとこない人も多いだろうけど、
木坂さんはよくわかる感覚の退屈だと説明してくれた。
それはシチュエーションに退屈みたいなもの。
パーティーに呼ばれて行った。
人と会って楽しい話ができた。
美味しい料理も食べれた。
でも、家に帰ると退屈に感じる、
みたいなものだと例えていた。
場所や人に不満があるわけではないけど
退屈だというものだね。
僕もこの感覚よくわかるけど、
やっぱりほとんどの人は
この感覚ないのだろうか。。
大衆っていうのはそういうものだし、
疑問をもたずに過ごすから
この第二形式の退屈はあんまり理解されないだろう、と。
第三形式の退屈はただなんとなく。
きっかけも原因も対象もわからない。
何もわからないけど、退屈という形式。
こうみるとよくわかると思うけど、
最も根源的な退屈は第三形式。
存在論的危機を招く、
世界でひとりぽっちみたいな感覚のこと。
人はこれに耐えられないから
何かをする。
第三形式から逃れようとして、
第一形式や第二形式があわられる。
バイトしたりパーティーしたりして
何か違うなあと思うってやつだね。
ハイデガーはこの退屈の解決法を示していて、
それは、、、
「決断せよ!」
ということ。
よし、バイトしよう!とかよし、腕立てやろう!みたいな
決断をすることによって第3形式を乗り越えられる
というもの。
それこそがダーザインだと。
アーレントのいう、
始めることの自由がある
も同じ意味合いだろうと
木坂さんは言っていた。
木坂さんが言うと、
絶望のうえでダンスをする
という表現になる、と。
ダンスをするように、
軽やかにってとこが
ポイントらしい。
「哲学とは本来、郷愁である」
とノヴァーリスは言ったらしいけど、
本来いるべきではない場所にいるというのが
哲学の始まりであって、
今の世界に対する居心地の悪さや違和感(絶望)と
別の世界に対する希望を同時に感じることだ、と。
そして、いよいよまとめ。
人間は持って生まれた「理性」の中に
差別的なるものが埋め込まれている。
持って生まれた知性と理性を駆使することで、
暇になってきたが、その「暇」が退屈を生み、
その退屈から逃れるときに
差別的なるものが生まれる。
魔が差してでもなく、
悪人特有のものでもない。
差別は原理的に埋め込まれているということ。
だから、イジメという現象はなくせるけど、
差別は無くせない。
理性、知性によって生み出される差別に関しては
理性と知性を鍛える事で乗り越えるしかない。
退屈が原因で生み出される差別は
「いまここ」没頭することで
乗り越えるしかない。
(動物や赤ちゃん的な生き方)
人間としての生き方を磨き、
動物としての生き方を忘れないことによってのみ、
差別とうまく付きあうことができる。
人によっては違うだろうけど、
ゴールはいっしょう、という結論だった。
まあ、こんな感じで西洋哲学史の講座
第10回目が終了。
あと1回やるみたいだから、
それもまた楽しみ。
では、今日はこのへんで。
またね。
島田晋輔
PS)
今日の一曲はこちら、、、
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