東京でのオーダースーツ受注会に参加し、
朝までイタリア人たちとクラブで踊り、
次の日から大阪。
打ち合わせやランチミーティング、
踊らないクラブで大阪人たちに接待を受けたり、
体感型の4DXの映画館に行ってみたり。
というわけで13日の木曜日に帰ってきて、
昨日、14日の金曜日から
小野さん主催の智頭合宿イベント。
詳しくはこちらの小野さんのブログ記事を
参考にしてもらえれば。
事前の打ち合わせで
なにか講義やプレゼンをしたり、
勉強会やワークショップをしたり、
そんなことは何も必要ないので、
普段のまま過ごしていてもらえれば、、
という注文だったので、
合宿初日はほんとになにもしなかったのだけど、
まあ、それがいいのかな、と思ったり。
コンセプトは「自分という器」を広げる
ってことの年間プログラムらしく
(いいコンセプトだね)
決して安くない参加費だと思うのだけど、
そして、さらに参加費とは別に合宿の実費と
時間をつかって参加してるけど、
まあ、昨日はタルマーリーにランチいって、
美味しいパンとビールを飲み、
廃校の教室でちょっと質疑応答して、
またタルマーリにビールを飲みに行って、
教室でだらだらすごし、夜は幸田さんの出張手作り料理を堪能する
というふつーに楽しげな合宿初日だった。
参加者のみなさんにも、
とにかく僕と過ごす、空気感を楽しんでもらう、
そして、新しい体験をしてもらうってことを
小野さんは力説してたけど、
僕はほんとになにもしなかったけど、
まあ、そんなものだろう。
何かしてもらう、得るものがあればって考えるのは
狩猟的な考えだからね。
なので、合宿は今日も明日も続くのだけど、
ゆるく
たのしく
てきとーに
行きましょう
と、僕は伝えた。
このブログみたいな「湯立て」だね。
寒くなってきたからね。
ゆるくたのしくてきとーに
湯立ての精神でいければ。
というわけで、今日はみたき園にランチに行き、
そのあと植林イベントに参加し、
元湯に温泉に入りに行き、
っていうスケジュール。
元湯はもはや智頭ではないのだけど、
まあ、楽しんでもらえれば。
楽しくなくてもいいか。
では、こんな感じで。
よい土日を!
島田晋輔
PS)
みたき園に行くので、
先日、みたき園でコンサートをした
アンサリーの一曲を、、、
「おおかみこどもの雨と雪」のテーマソングだね。
この映画、親子とか子育てがテーマになってるから、
「未来の家族のあり方」の記事とあわせて観てもらうとよいかも。
親離れ、子離れあたりがこれからますますキーになってくると
個人的には思う。
PPS)
親指シフトトレーニング15日目。
取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。
ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。
取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。
では、さっそく15分のトレーニング開始。
知性の正しい導き方
ジョンロック著
下川潔訳間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)
第一節 はじめに
人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。第二節 才能
人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出して
今日のトレーニングはここまで!
この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。
すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。
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