Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

インプットクラス。トルストイとの対話。木坂さんとバーグの対決。

img_4107

2年目に突入したトルストイの人生論を読む
インプットクラス。

土日クラスと平日クラスが統合され
同じような論点、テーマが交わり、
独特な雰囲気となった。

先月、ひふみの誕生日だったので、
6年ぶりに欠席したのだけど、
今回は参加することができた。

ちょうど10人だったので、
5人5人の2グループにわかれて
ディスカッション。

先月からの宿題をみんなに確認すると、
存在論の立場ではなくて、
認識論の立場でトルストイは書いている
とクラス全体でコンセンサスがとれたので、

徹底した認識論の観点に立って「人生論」を読んだ場合、
理性や理性的意識についての議論はどうなるか?

というものだった。

この宿題に関して班のなかで意見交換をしつつ
深めていき、最後に発表。

班同士の意見交換をしたのだけど、
相手の班の長はご存知めんどくさいザッキーバーグ。。

今回も幕開けから予想通り大波乱となった。

そもそもの大前提である

徹底した認識論の観点に立って「人生論」を読んだ場合、
理性や理性的意識についての議論はどうなるか?

という先月からの課題を野蛮人ザッキーニは
無視して、

「トルストイは認識論の立場では書いていない
存在論の立場で書いている。なぜなら〜」

みたいな発表からはじまったから、
僕ら全員は拍子抜け。

あれ、先月の議論で存在論の立場で書いてなくて
認識論の立場で書いているってコンセンサスとれたんじゃないの!?
って僕は思ったのだが、先月欠席した僕だけでなく
みんながわりと同じように感じているようだった。

このルール無視のちゃぶ台返しは
野蛮人ザッキローニの十八番だけど、
ロジカルに説明するのでなくて、
断定調でパワーでグイグイくるから
みんな腑に落ちないまま時間だけすぎていく。。

こんなことやってるから、
一歩進んで二歩下がるみたいな
講座になってるんじゃないかって
みんなは気づいてるのだろうけど、
まあ、それも含めたトレーニングだからね。

いつも通り噛み合わない議論で
空気は重くなり、野蛮人ジャッキーバーグに
蹂躙され、ジョンロッククラスに続いて
このクラスもバーグに占拠されるのか、
と思いきや、、、

重苦しい雰囲気を察して、
木坂さんが助け舟。

前提の確認と共通の地平を築きつつ指摘をする。

ここからしばらく木坂さんとザッキーチュンの
一騎打ちが始まるのだけど、
木坂さんはあの屈強な野蛮人と柔軟にやりあい、
論は意外な方向へ。

クラスにいた総帥も、
これはすごい、、、
あこがれるぅ〜とディオを取り巻く少年ばりのセリフを
言っていたけど、僕らではできない次元の論の展開と
コミュニケーションだった。

バルバル言ってる野蛮人ザッキーとチャンネルをあわせて
会話しつつ、ザッキーの意図も組んでいく。

世界一ぶれない男と称される
ザックも木坂さんのわかりやすい例えと
いろんな角度からの攻めで最後には落城。

白旗をあげることとなった。

まあ、白旗あげても攻めてくるのが
バーグなので、、予定の時間を大幅にオーバーして
7時くらいに終わったのかな(セミナー終了異定時刻は16:30だからね)。

トルストイどうこうというより、
有意義なホットディスカッションが
唯一無二の価値であることを
感じる回だった。

そんなわけで人生論は進まないのだけど
引き続きトレーニングしていく。

では、今日はこのへんで。

また明日。

島田晋輔

PS)

今日の一曲はこちら、、、

PPS)

親指シフトトレーニング33日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。

知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。

第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。

第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れ怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちの

今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。



姓   名 

メールアドレス 






関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


メルマガ登録


 


島田晋輔のメディア


'stats.label.addfriend' (MISSING TRANSLATION)
PAGE TOP