Walk on the Wild Side

未来の家族の在り方

西洋思想史セミナーその3の続き。

家族を考えるに当たって、
管理ツールとしての戸籍制度の話や
個人主義、キリスト教などの話だったね。

今、日本で採用している一夫一妻制というのは、
キリスト教の世界観に基づくものだから、
キリスト教の思想や背景を知っておかないといけない。

で、続きとして

日本社会と個人主義

の話から。

なんとかセンターっていう機関が調べて
国々の社会状況や国民気質などをデータ化したものを比較検討。

日本の特徴は、

世界でもっとも男性性の強い国

というデータがあった。

このマスキュリンの高い国というのは、
競争的な社会を表しているらしい。

人より稼いだか、
高学歴とかね、
成功したとか、うまくいったのか、
といったことを重んじる傾向にある社会だと。

逆にフェミニンが高い社会は
やりたいことがやれているとか、
友達が多いとかといった
QOLを重視するのだとか。

他にある日本の特徴として、
ロングタームオリエンテーションの項目が高かったので、
長い目でみてうまくいくかどうかを重んじていたり、
がまん強さがあったり、抑圧的だったり、
といった感じ。

逆にアメリカは、規範的な社会であり、
個人を重んじる傾向にある
というようなデータがあって。

ここでのポイントは、、、

制度的にはアメリカと同じものを採用しているのに
個人主義の差がある


ということ。

日本の伝統だと錯覚している人が多いけど、
制度的には実は100年ほどの歴史しかないのに
ってところを押さえておきたいね。


ここから読書(思想)の話に。

もともとは本にアクセスできる人が限られていたけど、
活版印刷機の発明により本は一気に広まった。

活版印刷機が発明された最初の50年で、
約800万冊の本が出版されたという。

これはそれ以前の1000年間の
全ヨーロッパで書かれた本の合計より
多いのだとか。

活版印刷機が出るまでは
一冊一冊が写本で
作られていたため想像するだけで
差が出るのはよくわかる。

また、当時は識字率が低く、
本自体が巨大かつ高額で、
古代語は単語の切れ目がわかる記述法ではなかったため、
音読が普通だったという。

IHAVEAPENWELOVE

みたいな表記だったので、
声を出さないと読めないものだったらしい。

ピリオドやカンマなどが使われるようになったのは、
10世紀以降なので、それ以前は
声に出して読むという普通のスタイルだった。

もっと言えば、古代語はアルファベットレベルで
順番が入れ替わるので、大変だったのだとか。

木坂さんは1行訳すのに2時間かかったこともあると
言っていた。

その後、本が小さく、安価になり、識字率も向上し、単語の切れ目が
明確な記述法が普及すると、黙読が一般的になる。

黙読によって、、、

自分だけの時間、自分だけの知識、
自分だけの内省、自分だけの思考が養われていく。


これは、近代的個人の確立、
また個人主義の確立を後押しする力となった。

それ以前は黙読は気持ち悪いと思われていたし、
声に出して読むのが普通だから、
昔の図書館は独房スタイルだったらしい。

ちなみに、日本では1872年に図書館での音読が禁止され、
今、僕らが知っている静かな図書館ができていったのだとか。

一方、ヨーロッパは300年以上も前に
今のスタイルの図書館になっていたということもあり、

日本は近代的個人を確立させるのが遅い

ということがわかる。

そうそう、以前ブログにも書いたことあるけど、
天才の条件に「孤独」というのがあったね。

孤独に個人で打ち込む。

深く自己対話する、内省する。

そういった子が天才の共通点だと。

個人主義、黙読文化とも重なる部分があるね。


さてさて、ここでなぜ「西洋」なのか
ということを気にしている人も多いと思うけど、
その理由がこういった背景で明らかに。

そもそも西洋が覇権をとったのは
ここ300年のことで、それ以前は中国だった。

中国はそもそも周りから学ぶものが
なにもないというメンタリティもあって
西洋に追い抜かれてしまった。

いろんな世界中の民族を調べたエマニュエル・トッドによると、
長らく文化大国だった中国を追い抜き、
西洋が覇権を握った理由は、、、

1.個人主義的なものを阻害しない家族形態
2.家族形態の大きな変遷がない


という2つによるものだとした。

そして、この2つを満たしているのが
西洋だった、と。

トッドによれば、最も原初的な家族形態は「核家族」であると主張している。

核家族というのは、子供が成人すると、
その家を離れて別の家族を作る形態のこと。

必然的に、、、

親子関係は相対的にドライになり、
個々の自立心は強くなり、
移動力が増す


ということ。

今、先進国である西洋は、太古の昔からずっと核家族が中心で、
大きな変化がなく現代に至っている。

トッドはいろんなケースを調べていて、、、

例えば、ヨーロッパ家族間の訴訟で一番多いのは、
親が不当な金額で子に家具を売ってくるといったものらしい。

要するに、核家族が主流の西洋では
近代個人が確立されやすく、
それが世界の覇権をとる力であった
ということ(結果として、時代にフィットしていた)。


では、日本はどうなのだろう?

日本は核家族寄りの直系家族。

近代に入ってなお「イエ」の縛りが相対的に強く、
孤児院主義を阻害する。


結果として、社会契約や民主主義、資本主義、科学思考など
西洋的なものと馴染まない。

これは、もしかしたら「損」をしているかもしれない、、、

この先、グローバル化が進んだ先はどうなるのだろうか?

子どもや孫たちはどうなっていくのか、
未来を見据えるための講座だからね。


そして、いよいよ終盤の家族の話。

家族なるものは、3つの根拠が考えられる。

1.血縁
2.居住空間の共有
3.思い込み

つまり家族というのは「現象」である以前に、
ある種の「思想」として成立していなければならない。


自分の子が他人の子よりかわいいと思うのは、
そう思いたいからであるという話。

もちろん正解はないのだから、
こういった背景を踏まえて、
僕たちは家族の在り方を考えないといけない。

セミナーは、

「どのような形態が最も時代にフィットするのか?」

といったメッセージ締めくくられた。

これからどうなっていくのか、
家族とは何なのか、
自動的に今までの家族の雛形にあてはめる必要はないんじゃないのか、
時代に向いている在り方があるのではないのか。

子どもにも問うもの。

どういう家族がいいのか?

規範的になる必要はないし、
これまではこうだったが、
これからどうなるかは誰にもわからないのだから。

社会と個人の在り方。

未来に向けた問いの材料をもらったので、
ぜひぜひいっしょに考えて行きましょう。

ではでは、このへんで。

また。


島田晋輔

PS)

今日の一曲はこちら、、、



PPS)

親指シフトトレーニング13日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。


知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、



今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。

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