西洋思想史セミナーその4のまとめ。
昨日は現象学や形而上学、哲学の話だった。
ここからセミナーは
現象学的世界の話に。
デカルトはコギトエルゴスムから
「正しい理論」を積み立て、
客観世界を認識できると考えた。
フッサールは、現象学的還元(エポケー)後に
現れる志向性、つまり精神作用全体を
見つめることで「個人的意味の集合体」として
世界が記述できると考えた。
「個人的意味の集合体としての世界」こそが
リアルな世界という立場。
ここで参考に印象派の絵画の話に。
印象派の絵画はフッサールが流行っていた時期のもの。
記憶や印象として刻印されているものを
出力するということが印象派の絵画の技法だった。
カミーユの肖像の紹介もあったけど、
目の前にいるのが奥さんだと思ったら
エポケーできていないということ。
判断を停止して
あるがままを見ることがエポケーだから。
余談だけど、日本人が印象派が好きな理由は
「あるがまま」が好きだからという解説があった。
温泉に入ってエポケーしたいのが
日本人だと。
わずらわされない、
不自然な状態から脱せられるのが、
エポケー。
そして、いよいよここでセミナーの最後。
生と死について。
「もう生きられない」
と、心から思ったら死ぬしかないのか。
生死が「肉体」にのみ用いられているならば、
生の停止=死なので、
この問いは自明(トートロジー)だから、
そもそもがナンセンス。
しかし「心から」などの言葉がある通り、
それ以上の何かを佇むのであれば、
「生きる」をどう定義するかによる。
正解を探すのではなく、
現象学的に還元して考える。
理解する。
客観的に考えるのは単なる物知り君で、
大切なのはエポケーして実生活に活かすこと。
自分にとってどうなのか、
ということ。
もちろん他者も感想・イメージをもっている。
間主観性、相互主観性とも言うけど、
僕が勝手にみた世界の感想、印象がすべてではなく
あなたとの間に心を共有している。
メルロー・ポンティが主張した
僕とあなたで身体を共有している
間身体性。
ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァが
主張した間テキスト性。
作者と読者の共同作業。
ベイトソンのいう木こりの心じゃないけど、
もうすぐ2年になるこのブログも
僕とあなたで作り上げたものなのだろうね。
では、西洋思想史セミナーその4はこれにて。
また。
島田晋輔
PS)
今日の一曲はこの前のソファーサウンズに出演した旅するウクライナ人であるセルゲイの一曲を、、、
PPS)
親指シフトトレーニング66日目。
長くなってきたので、
別ページに。
今日のトレーニングはこちら。
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