Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

なんで自分は死ななかったのだろう

病院のベッドの上で
目が覚めるたびに何度も思った。

プロのダンサーとして踊りだし、
これからというときだった。

プライベートも充実してきていて、
結婚もしていた。

しかし、
一瞬の事故で全てを失った。

自転車でオーディションに
向かうときだった。

壁と車の間に挟まれる。

助かったのが奇跡だったという。

意識が戻りだした3ヶ月後、
ベッドの上では、
首から下が動かない状態だった。

なんで自分は死ななかったのだろう。

何度もそう思ったらしい。

でも、それ以上に、、、

もう一度舞台に立ちたいと
思うようになってきた。

なぜならば、、、

生まれは北海道。

1300gない状態でうまれる。

未熟児だったので、
保育器のなかに入れられた。

もともと、
母親が体の弱いひとだった。

姉が生まれる前に
3、4回流産していたような人だ。

生まれてからも
3歳まで発語もほとんどなく、
自分の力で立つこともできなかった。

そんなとき、
通っていた小児科の先生のすすめで
歌で言語を覚えていく
幼児音楽療法に出会う。

それから少しずつ身体も
成長するようになった。

舞台の主役もやるようになった。

自分が自分らしくあるときが
舞台に立っているときだったのだ。

小学校に入ってからも
踊りを続ける。

レオタードをきて、
踊りをしていたので、
まわりからいじめにあう。

身体も小さかったのもあるだろう。

それでも、少年には
明確な未来が描かれていた。

13歳で親元を離れ
ひとりでロンドンにバレエ留学。

ロイヤルバレエスクールだ。

裕福な家庭ではなかったから
お金かかるなら行かせることができない

と言われていたので、
小学4年生から3年間
毎朝、朝の新聞配達のバイトをしていた。

10歳のときに、明確に
ここを出るヴィジョンを描いていたからだ。

ホームシックにもならず、
30過ぎで日本に戻るまで
一度も日本に帰ってこなかった。

23歳で事故にあい、
呼吸しかできない時期を過ごした。

リハビリを通じて、薬や車椅子を拒否し
自分の身体と対話するようになった。

痛みを受け入れるようにしたのだ。

こうして、少しずつ傷をいやし、
自身の経験から呼吸法や身体方法を
指導するようにもなる。

日本に戻ってきてからは、
NPO法人も立ち上げ、
地域おこしやアートプロデュースも
手がけるようになった。

佐渡島の天領盃をプロモーションしたり、
アートイベントを行う
カフェを経営するようにもなった。

もちろん全て手作りだ。

助成金ももらっていない。

そして、、、

プロのダンサーとして
舞台にも立つようにもなった。

地方を拠点としながら、
世界の最前線で活躍する男のストーリーを
明日、公開する。

お楽しみに。

島田晋輔



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