この前の「質問に答えましょうシリーズ」で
最後にでた質問、、、
質問というかトピックだけど、
それが「家族」について、だった。
そのとき、最近考える自分の家族のあり方に
関して、血縁だけのつながりでないものを
強く感じるようになったと答えた。
秋分の日の秋彼岸。
大家さんとその息子さんご家族がきて、
いっしょにお墓を掃除。
草むしりをしたり、
放棄ではいたり。
水をあげ、花と団子を添えて
線香をあげる。
大家さん一家に混じって
僕たち家族もいっしょに。
卒塔婆についた蝉の抜け殻や
墓石にへばりついたカエルに
きゃっきゃする子どもたち。
そしてそれを微笑ましく見守る姿は
知らないひとがみたら孫たちと
おじいさん、おばあさんたちと見えるだろう。
実際に大家さんの息子さんの娘さん、
つまりはお孫さんは小学校1年生で
ひふみのひとつうえ。
あんまり変わらない年齢だ。
ひふみやいたるたちからしても
大家さんとは毎月会っているし、
本人たちもおじいさん、おばあさんと
認識しているのではないかと思う。
そういえば今年は栃木にも帰ったし、
僕がインドに行っているときは、
愛知県の奥さんの実家に行っていたようだし、
子どもたちは、ずいぶんとたくさんのおじいさんやおばあさんに
会ったのではないかと思う。
この前の西洋思想史セミナーでは
オリンピックを終えた後というのもあって、
法とは何か、国家とは何か、
国際大会とは何か、みたいなことを
深めていったが、そのとき例にでた
高須クリニックのクリニックの
ナイジェリアのサッカー選手たちへの
寄付金の話。
高須クリニックの院長が4000万円ほどの寄付金を
ナイジェリアの男子サッカーの代表選手たちにって
ことだけど、その理由が彼らの不屈の精神が好きだから
ことらしい。
日本人だから無条件に日本を応援するってわけではなく、
自分が一番、想像を共有できところ、
シンパシーを感じることを支援するというスタンス。
「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治の共同体である」
と定義したアンダーソンの言葉を借りるならば
家族のあり方も血がつながっている
いっしょに暮らしているというだけでなく、
いかに想像を共有できるのか、
シンパシーを感じるかが大切になってくると思う。
そして、国民意識の形成において
ナショナリズムを産む必要条件として
想像を可能にする言語、時間と空間を共有するという
アンダーソンの考えを取り入れるならば、
ひふみやいたるにとっては
大家さんであるおじいさん、おばあさんたちは
ずいぶんとシンパシーを感じる存在なのだと思う。
こういった時代の変化とともに
家族のあり方も変わっていくだろうね。
では、今日はこのへんで。
また明日。
島田晋輔
PS)
今日の一曲はこちら、、、
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