Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

親指シフトトレーニング記録。題材はジョンロックの「知性の正しい導き方」。

親指シフトトレーニング91日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、設計をしたり、網の上でダンスをしたり、綺麗な筆跡で字を書いたりすることはできないのと同じです。
 いやむしろ、大部分の人たちはこのようなことを全く知らずに暮らしており、自分が慣れや練習を欠いていることに気づくことすらありません。そういう人たちは自分の職業上のいつもの仕事を、そらで、という言い方があるように、覚えた通りにこなします。うまくいかない時には、思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術を完成された形でもっていると決めてかかっています(というのも、彼らにはその程度の分別しかないからです)。あるいは、仮に彼らが自分の利害関心や気まぐれに従って何らかの問題を考えたとしても、それに関する彼らの推論はやはり自己流であり、よかれ悪しかれ、自分の気質にあったものです。これとて、自分が知っている中では最良の推論なのです。したがって彼らがその推論によって誤りに導かれ、それに従って自分の仕事がなされると、自分の中にその原因を見出したり、それについて苦情を言うことをしないのです。たとえ何が自分の仕事を失敗させたとしても、正しい思考と判断が自分になかったからだとはみなしません。本人は自分自身のうちにそのような欠陥を見ることはせず、自分なりの推論によって計画をきちんと実行しているし、自分の手におえない不運な妨害がなかったならば少なくとも遂行したはずである、と確信しています。こうして彼は、自分の知性の不十分な、大変不完全な使用に満足してしまい、自分の心を改善する方法を見つけ出そうと苦労もせず、



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング90日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、設計をしたり、網の上でダンスをしたり、綺麗な筆跡で字を書いたりすることはできないのと同じです。
 いやむしろ、大部分の人たちはこのようなことを全く知らずに暮らしており、自分が慣れや練習を欠いていることに気づくことすらありません。そういう人たちは自分の職業上のいつもの仕事を、そらで、という言い方があるように、覚えた通りにこなします。うまくいかない時には、思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術を完成された形でもっていると決めてかかっています(というのも、彼らにはその程度の分別しかないからです)。あるいは、仮に彼らが自分の利害関心や気まぐれに従って何らかの問題を考えたとしても、それに関する彼らの推論はやはり自己流であり、よかれ悪しかれ、自分の気質にあったものです。これとて、自分が知っている中では最良の推論なのです。したがって彼らがその推論によって誤りに導かれ、それに従って自分の仕事がなされると、自分の中にその原因を見出したり、それについて苦情を言うことをしないのです。たとえ何が自分の仕事を失敗させたとしても、正しい思考と判断が自分になかったからだとはみなしません。本人は自分自身のうちにそのような欠陥を見ることはせず、自分なりの推論によって計画をきちんと実行しているし、自分の手におえない不運な妨害がなかったならば少なくとも遂行したはずである、と確信しています。こうして彼は、自分の知性の不十分な、大変不完全な使用に満足してしまい、自分の心を改善する方法を見つけ出そうという苦労もせず、確実な基礎から導き出される一連の長い帰結の



今日のトレーニングはここまで!

************************************



親指シフトトレーニング89日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、設計をしたり、網の上でダンスをしたり、綺麗な筆跡で字を書いたりすることはできないのと同じです。
 いやむしろ、大部分の人たちはこのようなことを全く知らずに暮らしており、自分が慣れや練習を欠いていることに気づくことすらありません。そういう人たちは自分の職業上のいつもの仕事を、そらで、という言い方があるように、覚えた通りにこなします。うまくいかない時には、思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術を完成された形でもっていると決めてかかっています(というのも、彼らにはその程度の分別しかないからです)。あるいは、仮に彼らが自分の利害関心や気まぐれに従って何らかの問題を考えたとしても、それに関する彼らの推論はやはり自己流であり、よかれ悪しかれ、自分の気質にあったものです。これとて、自分が知っている中では最良の推論なのです。したがって彼らがその推論によって誤りに導かれ、それに従って自分の仕事がなされると、自分の中にその原因を見出したり、

推論によって計画



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング88日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、設計をしたり、網の上でダンスをしたり、綺麗な筆跡で字を書いたりすることはできないのと同じです。
 いやむしろ、大部分の人たちはこのようなことを全く知らずに暮らしており、自分が慣れや練習を欠いていることに気づくことすらありません。そういう人たちは自分の職業上のいつもの仕事を、そらで、という言い方があるように、覚えた通りにこなします。うまくいかない時には、思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術を完成された形でもっていると決めてかかっています(というのも、彼らにはその程度の分別しかないからです)。あるいは、仮に彼らが自分の利害関心や気まぐれに従って何らかの問題を考えたとしても、それに関する彼らの推論はやはり自己流であり、よかれ悪しかれ、自分の気質にあったものです。これとて、自分が知っている中では最良の推論なのです。したがって彼らがその推論によって誤りに導かれ、それに従って自分の仕事がなされると、自分の中にその原因を見出したり、それについて苦情を言うことをしないのです。たとえ何が自分の仕事を失敗させたとしても、正しい思考と判断が自分になかったからだとは見なしません。本人は自分自信のうちにそのような欠陥をみることはせず、自分なりの推論によって計画をきちんと実行しているし、自分の手におえない不運な妨害がなかったならば少なくとも遂行したはずである、





今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング87日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、設計をしたり、網の上でダンスをしたり、綺麗な筆跡で字を書いたりすることはできないのと同じです。
 いやむしろ、大部分の人たちはこのようなことを全く知らずに暮らしており、自分が慣れや練習を欠いていることに気づくことすらありません。そういう人たちは自分の職業上のいつもの仕事を、そらで、という言い方があるように、覚えた通りにこなします。うまくいかない時には、思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術が欠如しているからうまくいかないのだとは考えません。彼らは、自分が思考や技術を完成された形でもっていると決めてかかっています(というのも、彼らにはその程度の分別しかないからです)。あるいは、仮に彼らが自分の利害関心や気まぐれに従って何らかの問題を考えたとしても、



今日のトレーニングはここまで!

************************************



親指シフトトレーニング86日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、設計をしたり、網の上でダンスをしたり、綺麗な筆跡で字を書いたりすることはできないのと同じです。
 いやむしろ、大部分の人たちはこのようなことを全く知らずに暮らしており、自分が慣れや練習を欠いていることに気づくことすらありません。そういう人たちは自分の職業上のいつもの仕事を、そらで、という言い方があるように、覚えた通りにこなします。うまくいかない時には、



今日のトレーニングはここまで!

************************************



親指シフトトレーニング85日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を最も遠くの諸原理にまでさかのぼって追求し、その結合を確認することに若い頃から慣らされているわけではありません。何度も練習することによって自分の自分の知性をこの使い方に慣らしている人ではなければ、歳をとってから自分の心をこれに向けることもできまもせん。これは少しも不思議ではありません。練習をしたことがないのに突然彫刻をしたり、



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング84日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を担う根拠に基づくことをやめ、確実で疑いのない諸原理を用いることをしないのでしょうか。これが切に問われることになります。
 これに対して、人々がより良い確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は答えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく(それが該当する少数の人々がいますが、その場合には無能力は避難されません)、諸帰結の長い連鎖の中で、真理の依存関係を



今日のトレーニングはここまで!

************************************



親指シフトトレーニング83日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、現にその人たちがもっていて運用することのできる原理でしかありません。本当は自分が用いている原理には依拠していない、と主張することは経験に反します。それは、あなた方は間違っているという苦情に対して、いや自分たちは間違っていない、と言い張ることです。
 そうだとすれば、一体どうして、人々は、自分たちを欺くかもしれず、真理ばかりか明らかに誤謬をも支えるような役割を



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング83日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、その信念の理由を何も挙げることができず、なぜ特定の意見を別の意見よりも優先させるのかを少しも弁明できないとしたら、これは恥というものでしょう。いやむしろ、その状態に心を絶えず置いておくことは、あまりに大きな矛盾を抱え込むことになります。したがって、人々は何らかの原理を用いざるを得ません。その原理は何かと言えば、



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング82日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心事いくつか、とくに宗教的関心事においては、人々がいつも揺れ動いていたり確信を持っていない状態にあることは許されません。人々は何らかの主義主張を受け容れ、それを信奉していると公言しなければなりません。何か特定の宗教の真理を確信していても、



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング81日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。こうして私たちが自然の傾向性に然るべき仕方で従うならば、私たちのもっている気質そのものが、私たちのもっている気質そのものが、私たちを知性の正しい使用へと導いてゆきます。
 私たちの関心ごといくつか、



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング80日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎をもたねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの基礎をもたねばなりません。



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング79日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング78日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、このような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言ってることのような仕方で真剣に論じてしまうからです。彼らは、ある場合に自分の言っていることが重要ではないと確信したにもかかわらず、それと類似した場合には自分の発言内容を信じきって、それが重要だと考えてしまうのです。しかし、何の根拠もなく意見を抱き、少しも理由を示せない立場を受け入れてしまうようであれば、そういう人は自分自身にとって耐えがたい存在となり、他人にとっては軽蔑されるべき存在となるでしょう。真であれ偽であれ、堅固であれ砂のようであれ、心というものは、それが基づくところの何らかの基礎を持たねばなりません。ほかの所でも述べたのですが、心は命題を抱くやいなや、すぐにそれを基礎づける何らかの前提を探します。それまでは、心はそわそわして落ち着きません。



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング77日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて論を進めるような人がいます。信頼することができないとわかった後になっても、こういった間違った基準で自分を律する人たちを見ると、彼らはみずから進んで自分を欺き、自分の知性を誤った方向に導こうとしているのではないか、と考えたくなります。しかしながら、こういう人たちは一見ひどく責められるべきだと思われるのですが、実はそれほどでもないようです。というのは、私の考えでは、多くの人たちは自分や他の人たちを欺く意図を持たずに、



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング76日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する人であれば誰でも、以上のような自分の偽なる公準のどれかがテストされると、誤りうるものであると認めざるをえなくなりますし、自分と意見を異にする人々にはそのような公準の使用を許そうとはしないものです。それでも、そう納得した後でその公準を用い続け、次の機会が訪れるとまたその基準に基づいて



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング75日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらをは判定基準として採用し、その基準によって判断するように自分の知性を慣らします。こうして、人々はひどく間違った基準によって真偽を決定する習慣に陥ってしまうのです。彼らが誤謬を確実性と思い込んで受け入れてしまい、何の根拠も示せないような事柄に対して大変な自信をもつとしても驚くにあたりません。
 少しでも理性を標榜する



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング74日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆえ、彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえ、それは偽である。それは長いあいだ世間で受け入られてきた、それゆえ、それは真である。それは新しい、それゆえ、それは偽である。
 ここに見られる基礎やそれと似た多くのものは決して真偽の判定基準ではありませんが、大半の人々はこれらを



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング73日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですらないような諸原理を採用する習慣のことです。人はよく、自分の意見を基礎づける祭に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け入れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものやそれと類似したものです。ー私の党の創設者や指導者はよい人である、それゆかえ、



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング72日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害については、私は別のところで十分論じておきましたから、ここでは何も付け加える必要はありません。


第六説 原理

 人々の知識の追求を停止させこり、間違った方向へ導く、もう一つの過ちがあります。それについて私は少しすでに語ったことがあるのですが、ここでもう一度触れ、その根源を検討しどこからそれが発生するかを見ておく必要があります。その過ちとは、自明ではなく、しばしば真ですら



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング71日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を確定することや、私たちの行う思考が、それらの観念つけられた音声ではなく観念そのものを対象ということについて、繰り返し述べることはしません。また、私たちが真理を自分で探求したり、真理について他の人と語り合う際に用いる言葉の意味を確定することについても、繰り返しません。知識の追求において知性が出くわすこのような障害においては



今日のトレーニングはここまで!

************************************



親指シフトトレーニング70日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからであると不平を言っています。取り引きをするときには実に巧みで鋭敏であるのに、宗教の問題について理性的に話すとなると、全く何もわかっていないような人たちを、私たちはよく見かけます。


第五節 観念(その一)

 ここでは知性を正しく導いて改善することが問題です。したがって、明晰で確定された観念を




今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング69日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、絵や音楽といった芸術においても、講義や教授によって優れた画家や即興音楽家を育てることができていいはずです。
 そういうわけで人々の知性の欠陥や弱さは、彼らの他の能力と同様に、自分自身の心を正しく使用する機会がないために生じます。私の考えでは、しばしば人々は生まれつきの欠陥のせいでないことをそのせいにし、実際には




今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング68日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、笑われます。きちんと推論したり立派に話すことに慣れていない人に、その歳で訓練をしようとしても、大した成果は得られません。むしろ、規則のことを考えなくても行為するという習慣を、練習によって身につけねばなりません。正しい推論を示す一連の規則によって、首尾一貫した思想家や厳密な推論家を育てることができるくらいなら、




今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング67日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、大学や法曹学院で育った人たちとは違う才能をもって生まれたと考えるわけにはいきません。
 こういうことを言うのも、人々の知性と才能の差がはっきりしているにもかかわらず、その差は彼らの生来の能力からではなくむしろ後天的な習慣から生じる、ということを示すためにほかなりません。50歳をすぎた田舎の垣根修理人を素敵なダンサーにしようとすれば、



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング66日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。私たちは、法廷と大学では、同じ事柄に関してすら話し方や推論の仕方が大変違っているのを知っています。ウェストミンスターホールから証券取引所まで歩くだけで、人々の話し方や推論の仕方が大変違った雰囲気ろや傾向を持っているのがわかります。しかし、だからといって、シティで過ごすことになった人たちが、



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング65日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと練習があってできたことなのです。自然の性向がしばしばそれを最初に引き起こすことを私は否定しませんが、慣れと訓練がなければ、決して対したことはできません。練習だけが、身体の諸力と同様、心の諸力を完成させるのです。多くの詩人的気質が生業の中に埋もれていますが、改良が加えられないのでそれは何も生み出していません。



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング64日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を意識せずにやすやすとやってのけるようになる、ということが実際起こります。しかし、このようなことは完全に自然の仕業だとされていますが、実際には、それよりもずっと慣れと



今日のトレーニングはここまで!

************************************


親指シフトトレーニング63日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが、ほとんど何も持たず何も知らなかったにもかかわらず、彼らはスペイン人たちが自分たちの知らないような学問、技術、生活用品を豊富にもっている諸国を伝えた後になっても、自分たちを世界で最も幸福で賢い民族だと考えていました。しかし、だからといって彼らが深遠な博物学者であるとか、堅固な形而上学者であるなどとは誰も考えないでしょう。彼らのなかの最も鋭敏な人ですら、倫理学や政治学においてたいして解明された見解はもっていないと誰もが考えます。逆にまた、彼らのうちの最も有能な人たちは、自分の島と交易の相手である近隣の島々のわずかの事物に関する知識を超えていかなる知識ももちうるほどに知性を発達させているけども、真理に捧げられた魂の美しさを引き立たせるような心の全面的拡大、すなわち文字の力を借り、多種多様な思考をもった人間の異なる見解や感情を自由に考察することによって生じる、あの心の全面的拡大にはまだ至っていないのだ、と考えるわけにもいきません。誰でも真理の全体を見たいと口では言いますが、以上のことから、それを見たいと思う人たちが自らの眺望を狭めたり閉ざすことを許してはいけないのだということが分かります。自分が研究している学問や自分が読んでいる本のほかには、どのような真理も存在しない、と彼らに思わせてはいけません。ほかの人たちの考えをよく調べずに予断によって眺めるのは、その考えの闇の部分を示すのではなく、私たち自身が眼を失い、失明してしまうことに等しいのです。「ありとあらゆるものを試し、良いものをしっかりと保持しなさい」というのは神の規則であり、光と真理の父から授かったものです。ちょうど金や隠された財宝を探す時のように、掘って探し求める以外に真理に到達してそれをつかむ方法はないと思われます。しかし、そうする人は純正の金を手にいれるまで大量の土やがらくたを掘り起こしさなくてはいけません。普通は砂や小石やくずがそれと一緒に混ざりあっているのですが、それでも金であることには変わりなく、その金を苦労して探し求めて他の物から分離すれば、その人は富みます。混ざりあっているから騙されるという危険性もありません。人は誰でも自分のなかに試金石をもっており、それを使うつもりならば、本物の金とぴかぴか光るただの金属、つまり真理と見せかけを識別することができます。ここで言う試金石とは、生まれながらの理性のことです。その理性の効用や利益は、先入見をもっていたり、思い上がった放漫な態度をとったり、心を狭めたりするだけで損なわれ失われてしまうものです。理解可能な事柄について、私たちのこの高貴な能力をその限度まで十分に考慮しないことが、その能力を弱め消滅させる原因なのです。この点を調べて、そうでないかどうか確認してみましょう。地方の村の日雇い労働者は、人間交際も能力の活用も乏しいような、狭い境界の中に自分の観念や考えを閉じこめてきたため、通常わずかの知識しかもっていません。地方の町の職工はこれよりも少しましであり、大きな町の運搬人や靴修理人は、職工よりは多くの知識をもっています。地方の紳士がどうかと言えば、ラテン語を修め大学教育を終えた後は、自分の邸宅に移り住み、狩猟と酒のボトルばかりを賞味している同じ血筋の隣人と付きあいます。その紳士は、そういう人たちだけと時を過ごし、そういう人たちだけと会話をし、クラレットや放蕩で勢いづいた会話より高いレベルの話をする仲間には、とうてい耐えられません。私たちが知っている通り、このような幸福な教育法で育てられた愛国の士は、自分の財力と党派の力で顕著な地位に昇進すると、四季裁判所の席に座って必ず注目すべき判決を下し、自分の政治的力量を示すような目だった証拠を残すものです。このような人物と比べるならば、実際コーヒーハウスでロンドンのシティの情報をかき集めるありきたりの人間の方が、巡回政治家なのであり優れていると言えます。それは、ホワイトホールや裁判所に精通している人間が、ありきたりの商人よりも優れているのと同じです。さて、もう一歩先に進めてこの問題を考えてみましょう。ここに一人の人がいます。その人は、自分が属しているセクトの熱狂ぶりと無謬性にすっぽり包まれたまま、一冊の本にも手を伸ばそうとせず、自分にとって神聖である事柄を少しでも疑問視する人とは議論しようとしない、と仮定しましょう。このような宗教上の区別や体系は人間によって作られたものであり、それらには可謬性の刻印がついている[と彼は考えます]。自分が意見を異にし、目が開かれるまでは概して偏見をもっていた宗派や体系の中に、かつては気づかずあるいは想像することもできなかったが、案外支持できる数多く事柄が含まれている、ということを彼は見出すのです。さて、この二人が宗教上の論争をするとすれば、どちらが正しい判断を下し、どちらが、誰もが標榜するわけですが、彼らは生れながら平等な才能をもっているのだと私は思います。彼らは情報を収集し、自分の頭脳を様々な観念や考えや観察で満たし、それに関して心を働かせ、知性を形成してゆきますが、彼らの間の差はどれも、どれほど広範囲に知性を用いたかに由来します。
 一体このような条件を満たすような人がいるだろうか、と反論する人もいるかもしれません。これに対しては、予想以上に多くの人たちが条件を満たす、というのが私の答です。誰でも自分のなすべき仕事が何であるかを知っていますし、誰でも、自分がどれほどの人物になるかによって、世間の人々が自分にそれ相応の期待をかけてくることを知っています。そうして、誰でも、狭い精神にとらわれ、手にはいる手段を自分から放置しない限り、その時期に応えるような備えをする時間と機会はもっているものです。優れた地理学者になるために、地球上のあらゆる山や川や岬を訪ね、あらゆる所で購買人のように建造物を眺め土地を測量しなくてはならない、と言っているのではありません。それでもやはり、たびたび小旅行に出かけ国中行ったり来たりしている人の方が、挽き臼をひく馬のように同じトラックをグルグル回ったり、お気に入りのごくわずかの野原の境界内に留まっている人よりも、その国のことをよく知っていることは誰もが認めざるをえません。あらゆる学問における最良の書物を調べ尽くし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとするの人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事とは考えません。これくらい幅広く、本人に自分の理性と知性の自由を行使させてみれば、その人の心は強化され、許容力は拡大され、諸能力は改善されるでしょう。しかも、遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識をもっていることをいつでも証明できることになります。少なくとも私の知る限り、これが、知性をその能力の限度まで改善するのにふさわしい唯一の方法です。また、この方法によってのみ、この世で最もかけ離れた二つの事柄、つまり屁理屈屋であることと理性的人間であることを識別することができます。このように心を飛翔させ、広範囲にあらゆる部分を調べ真理を探究する人だけが、自分が思考するすべての対象についての確定された観念を、自分の頭脳の中に確実に定着させるはずです。こういう人だけが、他人の著作あるいは他人との言論から受け取るあらゆる事柄について、確実に自分自身で判断し、偏見のない仕方で判断することができます。崇拝や偏見によって、他人の意見のどれかが美化されたり貶められるのを許してはいけません。


第四節 練習と習慣

 私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力をもって生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。何事においても私たちが力量と技術を獲得し完成へと向かうのは、これらの行使によってでしかありません。
 同じように均衡のとれた体をもち、同じようなしなやかな関節をもち、少しも劣ることのない生来の才能をもっているとしても、紳士の身のこなしや言葉遣いを中年の農夫に学ばせるのはまず無理でしょう。ダンス教師の脚や音楽家の指は、自然に、思考せず苦労せずして、規則的賞賛すべき運動へと、いわば落下してゆきます。彼らに役割を交換するよう命じたら、努力しても、慣れない手足に同じような運動を生み出すことはできませんし、同じような技能を少しばかり身につけるのも、長い時間と多くの時間が必要になります。綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい目をみはるような動作をするのでしょうか。ほとんどすべての手仕事において、同じようにすばらしいものが色々見られますが、ここでは、世間がすばらしいと注目し、その証拠に料金を払って見ているものを挙げてみたまでです。このような素晴らしい運動は、練習をしない見物人たちと特別違ってもいない身体をもった人間が、ただ慣れと勤勉によって生み出した成果にほかなりません。
 身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、もっと詳しく調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによってそのような高みに達することになったのがわかります。感じのよい冗談を言うのに秀でた人もいれば、教訓話適切で愉快な話をするのに秀でた人もいます。これは純粋な自然がもたらしたけ結果であと考えられがちです。しかも、どちらに秀でている人も、それを規則によって身につけたわけではなく、それを学習する技術として一度も意識的に研究しようともしないので、なおさらそのように考えられます。確かに、初めに運よくヒットし、褒められたことが励みとなって何度も試みるようになり、自分の思考と努力をその方向へと向け、とうとう、いつのまにか、やり方を



今日のトレーニングはここまで!

************************************

親指シフトトレーニング62日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。



知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することがどれほど有益かわかるでしょう。たとえ、自分よりも理解の能力や速さや洞察の点で劣っている人たちに相談したとしてもです。というのも、誰も全体を見渡せませんし、一般に私たちは、どこから、つまりどのような位置から対象を見るかによって、同一のものについて違った眺めを得るからです。したがって、自分は見逃してしまったけれども、もし自分の心にはいってきたとしたら理性が採用しただろうと思われる考えを、誰か他の人がもっていないだろうか、と考えてみることは矛盾したことではありません。推論の帰結が基礎から導き出されたものならば、導かれるのは、次の場合です。すなはち、私たちは推論を基礎づける根拠を諸原理から導き出しますが、その諸原理が部分的なものでしかなく、推論を正当かつ正確なものにするために必要とされる何かを除外してしまう場合です。ここで、天使や分離した諸霊が、私たちと比べてはるかに大きな、ほとんど無限に近い利点をもっていることを想像してみるとよいでしょう。天使や諸霊は私たちよりも数段は上位にいて、より包括的な能力を授けられているかもしれないのです。そういう存在者のなかには、考慮の対象となるすべての有限の存在者について完全かつ正確な見解をもち、それらの間に成り立つ疎遠で無限に近い関係のすべてを、いわば瞬時に推論しうるものもおそらくいるでしょう。心がこのような力を備えていれば、自らの結論の確実性を静かに受け入れるような、実に素晴らしい理性をもっていることになります。
 研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心のなかでは、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。彼らの決定は、釣り合いがとれておらず弱々しく、彼らの判断は実にしばしば誤っています。その理由もこれでわかります。それは、彼らが一種類の人たちとしか会話せず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。太陽が輝き、そして彼らが結論するように昼の光によって祝福される知的世界において、彼らはゴシェンのような小さな地域を自分の領土として分割し、他方では、その広大な宇宙の残りの部分を夜と暗闇の支配に任せそこに近づくのを避けます。これが彼らのありのままの姿です。そういう人たちは、どこかの小さな川を使って、勝手のわかった相手と魅惑的な交易をします。彼らはそこに閉じこもり、その地域のお気に入りの製品や特産物については、十分腕の利く支配人になります。自然が世界の他の地域に蓄えた富は、彼らの小さな地域で豊富にたっぷりと手に入り賞賛される富と同じように、純正で堅固で有益なものですが、彼らはそのような富を探し求めて知識の大海に乗り出そうとはしません。彼らにとっては、自分たちの小さな地域に、世界中のありとあらゆる良いものがあるのです。こういう人たちは自分だけの狭い地域に閉じこもり、偶然や自惚れや怠惰による探求の制約を超えて外に目を向けようとせず、他の人たちの考えや言説や成果から切り離されて暮らしています。彼らは、大海によって地球上の居住可能な地域と一切の交信を遮られ、そのために自分たちを世界唯一の民族であると考えたマリアナ諸島の住民に例えられるでしょう。彼らの生活で使われたものはかつてはごく狭い範囲にしか及びませんでした。やがてスペイン人たちがアカプルコからマニラに航海した際に火をもたらしたのですが、それまでは彼らは火を使用することすらありませんでした。ところが