ワイルドサイドウォーカー秋山大介ができるまで~生後&幼稚園編~

生まれて間もなく…父が会社をクビになり無職になる

「本当は生活保護を受けないといけない状況だったのよ」

そんな話を聞いたのは、いつだったか覚えていませんが、ある日、母からそんな一言を言われました。おそらく、20歳をこえてからでしょうか。私の父は、最終的には自営業の社長となり、告別式などに何百人か、もう忘れましたが葬儀場の過去最高動員数を記録したほどになりましたが、「会社をクビになり無職になる」という過去がありました。

突然の脳膜炎…

母曰く、、、家に帰ってきたときは口から泡を吹いて、言語もめちゃくちゃだったとのこと。まだ、生まれて間もない私を抱え、父を病院に連れていったようです。だが、ここで病気だけでなく、仕事の試練が…父は、会社をクビになり無職になりました。母は、それまでの蓄えで何とかやりくりをし、父の仕事復帰を待ちました。そして、しばらくして無事に復帰。しかし・・・人生とは、落とすところまで落とすものです。今度は、次の仕事までにつなぐためにやっていた建設現場のアルバイトで落下事故…

骨折…また、父親が働けない…

当時、私は2歳か3歳くらい。母は、何とか仕事を探そうと、私の手を取り、ハローワークに行ったようです。でも、職員の人からは「小さい子がいると知ると採用してもらえないから、実家かどこかに預けてこれないの?」と言われる始末。そして、状況を説明すると、、、

「生活保護の手続きをしてはどうですか?」

と提案されたようです。それから、どの状況をどう乗り切ったのかは、全く分かりません。でも、母は「ここで生活保護を受けてしまっては…」と、辛さと悔しさの入り交じる感情の中、その生活保護の提案を拒否し、自力で乗り越えたそうです。その後、父は会社員として復帰し、間もなく、自営業を開始しました。

そのときの私は、もちろん父親が会社員なのか、自営業なのかは分かりませんでした。ただ、記憶に残っているのは「黄色のトラックに乗って家を出る父の姿」家から通りに出て走るトラックに向かって「お父さん、がんばってー!」と、母と一緒に、一生懸命、手を振っていた記憶が今蘇ります。

はじめは、しょっちゅう故障する、あの中古の黄色のトラックだったんだよな~と思うと、今では、定期的に新車のトラックを買うような会社の規模になったことが夢のような話ですね。ちなみに、父が会社を創業してそのトラックに乗り始めたのが33歳…そして、私がその会社を受け継いだのが33歳…不思議な縁です・・・

授業参観で、みんなに笑われる…

あれは、幼稚園に入園した年のことでした。

はじめての授業参観だったと思います。父親は創業間もないときでしたので、働き詰めで、母親も保険外交員として働いていたので、祖父母の家にいることが多かった私。
そんなこともあり、私はおじいちゃんっ子で、その授業参観には、母親だけでなく、祖父も来ていたと思います。

ただ、この授業参観で、今でも忘れない「ある出来事」の記憶が鮮明に残っています。

そのとき、確か家族の絵を描いたものを発表しました。しかも、名前の順で。ということは、私は「秋山」なので、トップバッターで、その絵を先生が発表しました。おそらく「はい、これが秋山大介くんの絵です!」という感じに。すると、その教室いっぱいに失笑とも言える声が蔓延しました…

「授業参観で、みんなに笑われた…」

でも、私は、その意味が分かりません。まさに、そこが発達に難を抱えていた未熟児だったからでしょう。医者に言われた通りであれば、私はまだ周囲の子どもに知能が追いついていないのですから。だから、よく分からないまま、みんなと一緒に笑いました。それが笑顔の笑いではなく、失笑だったことにも気が付かず。

ちなみに、私が描いたその家族の絵は「青とピンク」で描かれたものでした。まるでドラえもんのような感じで。ピンクは、きっと母親が付けていたエプロンだったのだと思います。でも、他の子は、肌は肌色のような暖色で描き、色々な色を使っていました。だから、肌の色を、青で表現した私の絵は、笑われてしまったのです。

だけど、おじいちゃんは笑顔で見てくれていたことを記憶しています。母親はどうだったか記憶していません。でも、決して恥ずかしいとか、そういうことを思う母ではないので、きっと笑顔で自分のことを見てくれていたのでしょうね。

ちなみに、この絵の話ですが…それから6年後くらいかな…小学校3年生のとき、世界児童画展で特選に選ばれて、新宿まで自分の描いた絵を見に行った記憶があります。実は、私…母はもともとファッション業界でパタンナーをしていたり、絵を描いていたりしていたので、そのDNAを引き継いでいたようです。だから、母はこの世界児童画展の受賞を非常に喜んでいました。

そうそう、一つ言い忘れました。もう一つ覚えていることが。。。私の家は、この頃はまだお金がなかったので、当時流行っていた「ファミコン」を買ってもらえず、ダンボールで擬似的なものを作っていた記憶があります。他にも、お菓子も絶対に1つしか買ってもらえなかったり、おもちゃも買ってもらえなかったので、他の子よりも、なんにも持っていない幼稚園生でした。

ただ、その代り、祖父が父がいつも吸っていたショートホープの空き箱を使って、色々作ってくれたり、自分も一緒になって作っていたので、図工だけは誰にも負けない自信が小学生のときはありました。そして、それが生かされたのか、職業の適性検査では「空間能力だけが満点」ということもあり、あなたに向いている職業は「彫刻家」と診断されました。「今さら彫刻家って!?そもそも彫刻家になる就職活動って何をするんだ!?」と、このときは本当に失笑してしまいましたね。。。


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