Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

「俺たちはそんなに頭もよくないし、そんなにいい大学にもいけない」

まだまだ続くよ智頭合宿体験記。

ということで、今回は最年少のカズさんから。

こちら、、、

島田さんへの感想

島田さんは口数が少なくて、こちらから質問しても少ない言葉で返されるのみで、詳しいことを説明しない、意味深な印象でした。

島田さん曰く「僕は何も言わないで相ずちを打っていただけなのに『島田さんと話をしていて悩みが解決しました』と言われることがよくある」とのことでしたが

口数が少ない意味深な印象から「島田さんがあんまりしゃべらないということはこういうことかな・・・」と質問した方は考えて、そのうちに何か思いついて、悩みが解決するのかな、と思いました。

また、個人的には出身高校が一緒ということで思ったのが、清陵高校は偏差値が高い部類ではなく、生徒達の進学先の偏差値も低い傾向でした。(少なくとも僕が在学していた時期は)

また「俺たちはそんなに頭もよくないし、そんなにいい大学にもいけない」といったセルフイメージを持った生徒が多く、それが当時の僕は嫌だったのですが、そんな中で島田さんはどう考えていたのか、今になって気になりました。

なんとなくですが「特になにも考えていなかった」と言われそうですが・・・。

美味しい料理を食べられて、自然に囲まれて癒されたので、また近いうちに智頭にいきたいなと思います、ありがとうございました。

アメリカ生まれ?だっけかな、
帰国子女だったかな、
ちょっと忘れてしまいましたが、
なかなかユニークなカズさん。

なんと小野さんの前の職場の部下らしく、
今はこうしてまた小野さんのもとで勉強している。

しかも、今月末に結婚するとのこと(おめでとー!)。

そういえば、今回の参加者のなかで
唯一ダイレクト出版の商品を
買ったことのない人でした。
(他の参加者は何かしら買ってるし、
小野さんと言えばダイレクト出版だろうから)

英語ができるということもあってか、
海外からも情報を仕入れていて、
使っているメディアがPodcastというところも
興味深かったです。

そうそう、それと感想にもありますが、
なんと同じ出身高校。

高校卒業後、同じ出身校の人に
出会ったのは初めてで
なかなか縁を感じました。
(同じ大学出身の人と出会ったことはあるんですけどね)

それと、カズさんのいう
「俺たちはそんなに頭もよくないし、そんなにいい大学にもいけない」といったセルフイメージ
みたいなのは僕のときは感じませんでしたし、
良い高校を選択したと今でも思っています。

実はこの宇都宮清陵高校は
学区外のエリアで僕の中学校からは
同期で4人しか行っていませんが、
他の3人はともかく僕は明確な理由をもって
選択していきました。

ほとんどの学生が学区内の高校を
選択するなかどんな理由があったのかは
またどこかで直接カズさんにお伝えするとして、
うちから高校まで自転車通学で
片道40〜50分かけるという
ハードルがあったにも関わらず
自ら選択した高校です。

振り返ってみると、
カズさんの言うように、

「特になにも考えていなかった」

とは真逆で、高校選択のときから
コアバリューとマスタープランに従って
戦略的に進路選択していたように思います。

当時はそんな言葉は知りませんでしたが、
よくよく考えれば中学、高校に限らず
小学生のころから根本は
あまり今と変わらず同じようなスタイルだったと思います。

それを踏まえると
今から5年後、10年後、20年後も
根本は変わらずプラン通りに進めていくのだろうな、
と気付きましたカズさんとの対話で。

ではでは今日はこのへんで。

良い休日を!

島田晋輔

PS)

そうそう、カズは現役のバンドマン!

ということで、カズさんのバンドの一曲をどうぞ、、、

PPS)

親指シフトトレーニング21日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。

知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。

第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。

第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の

今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。



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