Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

木坂さんの西洋思想史セミナーその4。


去年のクリスマス。

「仕事も人生もとてもつらい。今までありがとう」

とお母さんにメール、、、
びっくりしたお母さんは
「死んではだめ」と電話をしたけど、
その数時間後に寮から飛び降り自殺をした
という電通での過労死の話。

この電通での過労死の話を導入として、
生きると死ぬの関係から
「考える」ということの根本から。

デカルトの引用などからスタートした。

デカルトは、考えることを、、、

1.確実に真であると認めたもの以外は排除する
2.考える問題を出来る限り細分化する
3.最も単純なものから始めて複雑なものに達する
4.全てをきちんと見直す


の4つに分けた。

特に最も曲者は1で
いったいどのようにして
「確実に真である」ことがわかるのか?
ということ。

反証できない、
客観性のあるもの
というのが優等生の回答であり
間違いではないのだろうけど、
デカルトは
「方法的懐疑」により、
世界を一度全て解体。

唯一残ったのが
コギトエルコズム、
有名な我思うゆえに我ありってことだね。

認識しているのは確かかわからないけど、
唯一この「自分」は確かだと。

だから、外界が「確かに存在する」ことを
示したいとした。

西洋思想史セミナー0での話もあったけど、
哲学は、、、

・存在
・善悪
・認識


の3つのいずれかについて
考察している学問である、と。

なので、
「生きている」を考えるのも
この3つの観点から考えようとなって
少し時間をとってやってみたけど、、、

デカルトの「考える」通りにやっても
細分化が難しく、ぼんやりしたものになってしまう。

要するに、普段どれだけぼんやりと
世界をとらえているのか、
ということがわかる瞬間だった。

デカルトに言わせれば考えているようで
考えていないってこと!


ここでデカルトから少し離れて
現象学の視点の話に。

目の前にあるペットボトルを
「ペットボトル」と言ってしまった時点で
もう現象学ではない。

前の人に足を踏まれて
「あなたの足が私の足を踏んでいますよ」
と言ってしまった時点で現象学的ではない。

現象学でいうエポケーは判断停止、
現象学的還元はざっくり言ってしまうと
感想の寄せ集めみたいなものだという
話になった。

マジックで言ったら、
黒い、硬い、ちょっと刺激臭がある、
みたいな言い方になる、と。

判断停止でみたエポケー後の世界は

目の前にあるものが実際に何であるかは
どうやってもわからない


というもの。

全ては主観世界において作り出された
「イメージ」にすぎない。

そのイメージに対して持つ
「感情」や「感覚」などは否定する根拠がないのだから、、、

だったらそれを基準にして語ればいいじゃん!


っていう考え。

なぜ、あれを「水」と思ったのかを
探るのが現象学である、と。

要するに、現象学というのは、、、

長くなってしまったので、
今日はこのへんで。

続きはまた明日。


島田晋輔

PS)

今日の一曲はこちら、、、


PPS)

親指シフトトレーニング64日目。

長くなってきたので、
別ページに。

今日のトレーニングはこちら

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