Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

木坂さんの西洋思想史セミナーその2。一番偉いのは誰なのか?

年間通じて、西洋思想史と歴史学+地政学を学ぶ
マスタークラス。

時代をとらえ、これからの未来に備えていきましょう


ってコンセプトで開催されていると僕はとらえていて、
9月までで3回が終わった。

エピソード0も含めると4回終わったことになるかな。

で、今日は復習もかねて
西洋思想史セミナーその2を。

「一番偉いのは誰なのか?」

というセミナータイトルだったね。

オリンピックを終えて、
というのをきっかけに、、、

「国家を歌えないような選手は日本の選手ではない」

という森さんの発言と、

「脱原発テントの強制撤去に抗議する。原発事故は終わっていない。続いている。今こそ脱原発であり、原発がなくても電気は足りている。」

という福島みずほさんの発言に対して、
賛成か反対か、またその理由はなぜかという
問いからセミナーはスタート。

そこから国家とは何なのか?という話になり、
例えでフランスの国家、ラ・マルセイエーゼは
フランス革命のときの革命歌なんだという話から、
国歌は国家、国民、ナショナリズムとは
切り離せないものということに。

「国家」とは何か?

という話に移り、
国家というのは領土、国民、主権と社会科で習ったけど、
それはイスラム国にもあるわけで、
大切なのはそれに加えて、

他国から承認されている


っていう他者理解が最近では重要だという
話になった。

そこから、
国民とは何か?
と論は進み、、、

「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体である」


というwhatとhowに答えるアンダーソンの言葉と、

「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することである」

と、whyに答えるアーネスト・ゲルナーの言葉を手がかりに、
ナショナリズムの台頭は国民意識の創出ということを
僕らは学んだ。


で、だったら国民意識はどのように作られるのか?

というところに入り、
ここでもアンダーソンの言葉を、、、

「想像を可能にするのは言語である」


言語によって(抽象的な)価値観を共有する
ということ。

たとえば、ワイルドサイドを歩こうよ、
とかね(笑)。

確か、ワイルドサイド部の部活動のときに、
女子高生の言語の話が出て、
話題になったっけ。

共有言語は大切。

なぜなら、価値観を共有するから。

他に国民意識を作るには、
時空間を共有するってことと、
「異質な者」が存在するってことね。

これが「ナショナリズム」を生む必要条件だと。

海外に住んでいても、
日本語を話す人の方が近い「気がする」のは、
想像の共同体だから。


このように「言語」の共有が
非常に大切。

グーテンベルグの活版印刷が革命なのは、
「言語」を普及させたからということ。

価値観を共有できるのが
言語だからね。

そこから、アンダーソンがナショナリズムの起源を
2種類に分類したという話があり、
そこからカール・ドイチュの登場。

ドイチュの能動的視野では、、、

人々(people)が国民(nation)に成るには、
経済活動についてのコミュニケーションが蓄積され
societyができ、文化活動のコミュニケーションが蓄積されて、
communityが出来るという流れ。

この2つが一定以上蓄積されると、
countryができ、
countryに住むpeopleが自らの統治機構(state)を持ちたいと考えたときに、
peopleはnationになる、と。

実際に何らかのstateを持ったときに、
「国民国家(nation-state)」ができる
という話。

動きのまま理解しようとしたのがドイチュで、
この動きはたとえば僕らだと
ビジネスにおけるコミュニティの作り方にも通ずるね。

想像の共同体だから、
nationが何を想像しているかが
大切だということ。

まだまだセミナーは続くのだけど、
長くなってしまったので、
続きはまた明日。

ここまでのポイントは、

イメージとして描かれた想像の共同体

ってところかな。

ビジネスにおけるコミュニティでも、
会社であっても通づる話だね。

では、今日はこの辺で。


島田晋輔

PS)

親指シフトトレーニング8日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。


間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を


今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。


PPS)

今日の一曲はこちら、、、

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