Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

「本業、城ドラ。副業、いろいろ。職業、シマダシンスケ」

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小野さん主催の智頭合宿。

合宿参加者さんから感想が届いたみたいで、
こちらで紹介してもよいとのことだったので、
シェアしますね。

京都の日々さんからの感想です、、、

智頭合宿感想

合宿の参加は三回目でした。

智頭という場所には約十年ぶりに足を踏み入れました。

前回は蒜山大山から、バイクで岡山へ抜けるときに立ち寄ったことを思い出しました。

私にとっての今回の智頭合宿は、初日に伺った島田さんのオフィスでの一言が、自分にとっての「ほぼ本音」だと思えることでした。

その一言は、島田さんの「本業、城ドラ。副業、いろいろ。職業、シマダシンスケ」。

なるほどな、と。

これをサラッと言ってしまえる「体や心の状態」。
その状態でする「仕事」。
たぶん「仕事」というよりも「自分がおもしろいと思うこと」をやっているだけな状態。

だからこそ、柔軟でキチンとしたビジネスが展開できるのだろうと感じました。

そしてこの「本業〜」という視点は、自分に不足していたけど、自分が手に入れたかった視点でした。

これくらいで考えておかないと、職人魂に火がついて究極を極めることに突っ走りますから・・・。

次に、ほぼ「飲む」「食べる」がメインだった印象の合宿内容について。

タルマーリーに始まり、コースの夕食。
翌日の「みたき園」から「元湯」。
最終日の「火間土」「歩とり」。

どれもが、自分たちが「これがいい」と思ったことをやった結果、今の形になって共感した人たちが集まっているという、すばらしい状態。
従来の「モノ」だけではなくて「体験」というか、生活や人生を含めた「主張」「こだわり」の大切さを直に体感できました。

何度か島田さんも話されていましたが「こうじゃなきゃ」というのは、自分だけの思いこみであって、そこを少しでも離れられると心が楽になる。

そして、思考が広がるのでしょうし、行動が軽くなるのでしょう。

どこまでナチュラルに居られるか、ということに繋がるとも思います。

都会で聞かれる「ゆっくり、ゆるい生活をしましょう」というのとは違って、そんなことを意識することなく「自分はこうなんです」というナチュラルな心と体の状態が「ゆるく」なっていた、というのが理想なのだろうと受け取りました。

今回の合宿は「五感で感じる」という部分が多かったです。
あれこれと理論や自分の何かを掘り起こすというよりは、ポロッと口をついて出てくる言葉や、食べて飲んだときの感覚など。

私も普段から田舎で暮らしていますが「ゆるさ」の定義が違うなとも思いました。

そろそろ「ライティングではない」収入源を作りだそうとしていた時期に突入していたので「あれこれ力んで」いた時期でもありました。

今回の合宿に参加したことで、今まで自分が考えていた「こうじゃなきゃ」ということを「ゆるく広げる」という部分に気づけたのは大きな収穫でした。

自分がおもしろいと思えること。
そのことで、誰かの役に立てること。

ここに重点を置くことで、差別化され「選ばれる」何者かになるのが目標だと感じました。

追伸
デニーロに岡山まで送って頂いたとき、岡山市内で自転車に乗った若者が一人走っていました。

その自転車を見て「都会だな」と感じた感覚。
(智頭は自転車いなかったですからね。)

体験がないと出てこない感覚、思考とはこういうことなんでしょうね。

当たり前に「なぜ?」をどれだけ問えるのかが大事ですね。

ありがとうございます。

日々さんからはこんな感想も届いたようです、、、

みたき園の感想

何もなかった山の中からご夫婦で始まった生活。
まわりからの理解を得られないところからスタートした商い。

当時の苦労を笑顔でお話しされているのを見ると、苦しいことは当然のようにおありだったのでしょうが、その過去を今振り返ると「あれはあれで楽しかった思い出」に昇華されているようで、こちらがうれしく感じました。

そこには、確たる信念。
目標と目的が明確に存在し、その2つのことが、ご夫婦で共有出来ておられたんだなぁ、とも。

その結果「田舎で何もないから恥ずかしい」という人達を巻き込んで、何もないことを提供し「喜ばれること」とする発想は、私の普段の生活からは思いつきにくいことでした。

現在の「みたき園」の状態だけを見れば、これは偶然「時代が追いついた」だけなのかもしれないと考えることもできると思います。

仮にそうだったとしても、追いついたのには理由があるはず。

あえて理由を考えるとすると「時代が失った」ことを取り戻したい人が増えたからなのだろうと思います。

お話にも出ていましたが、昔のほとんどの家庭は2世帯でした。
当然、食卓を囲むときに座る場所も、無意識に決まっていました。
これは、私の家でもそうでした。

家長が座る場所。
子供が座る場所。
孫が座る場所。

男尊女卑や年功序列ではありませんが、家族の中には“共有”している共通のルールがあったことは確かです。
だからこそ、仮に家庭がギリギリのところだったとしても、家族という最小単位が崩壊せずに保てていたと思います。

しかし、昨今はどうなのかというと核家族化が進み、2世帯の家族は減少。
同じ時間に家族全員が食卓を囲むということすら、行えないような時代になったと思います。
子供は塾で遅い。だから仕方ない。
父親も仕事で不規則。だから仕方ない。
母親も仕事で不規則。だから仕方ない。

これは家族それぞれが個人の事情を最優先させるようになったためだとも思いますし、教育そのものが「あなたらしくで良い」という個性重視の考えを、自分たちに都合の良い解釈に変換した結果「自分勝手で良い」としたためだと私は思います。

今回お話されていたような、過去に存在した家族という最小単位の社会的グループを形成することが必要なのだと思いますが、今からもう一度従来の家族の形を推し進めることは簡単ではないでしょう。

そんな時代だからこそ、今回お話されていたような考え方を声高らかに広めるよりも、共感してくださる方に集まってもらい、伝えるという地道な活動に意味があるのだと感じました。

これは「お客様が好きなこと」を探して提供するという従来の考え方とは違い、「自分の好きなこと」を提供することで必要な誰かのお役に立つ。
だから共感した人が集まる。

という「自分の情熱」を出すことで成り立つことなのでしょう。

そして「自分の情熱」を出すと言うことは、一つのカテゴリーやジャンルを極めることも大事ですが、それ以上に“生き方”や“必要な誰かの役に立ちたい”という想いを含めた『こだわり』が重要なのだとも感じました。

そして、今回のお話を聞いたことで、自分が今からやろうとしていることは『打算的』なのではないか、と思う部分があるのは隠せません。

もう一度、打算的でも本当に自分が「おもしろい」と思えることなのか。
必要な誰かの役に立ちたいのか。

そこにライフワークとも言える『想い』や『こだわり』があるのかということを考え直す必要があると思いました。

でも、本業「自分にとっておもしろいこと」、副業「想いやこだわり」。

それくらいが本当は良いのでしょうね。

日々さん、ありがとうございます。

智頭合宿の様子をブログにも書いてくれていますので、
こちらをご覧ください。

個別に質問も届いていますので、
また後日、ゆっくりと回答いたしますね。

他の参加者からの感想はまた明日以降で!

ではでは。

島田晋輔

PS)

日々さんはラテン音楽が好きだと言われていたので、
こんな一曲はどうでしょう、、、

PPS)

親指シフトトレーニング18日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。

知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。

第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。

第三節 推論

 人々は、確定された観念を

今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。



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