Walk on the Wild Side

智頭の山人塾。秋季講座。

今週から智頭の山人塾の秋季講座が
始まっている。

山人塾は今年始まった
四季を通じた年間講座で

林業と自然暮らしの実践塾

をテーマにしたもの。

座学で学ぶだけでなく
実習もあるのがおもしろいところ。

最近、仕事やその他の用事などと
バッティングして参加できなかったのだけど、
今日は少し時間をとって午前中の講義だけ
受講してきた。

秋季講座は、
森林保護学を学ぶ。

秋ということもあり、
課外実習ではキノコ狩りなどをしたり、
チェンソーを使って伐採したり、
なかなか興味深い。

僕は明日から名古屋〜東京出張なので、
今日の午前中の座学しか受講できないのだけど、
それでもなかなか有意義な時間だった。

今日はマツ枯れとナラ枯れについて。

人間の体も植物もいっしょで、
症状だけをみて解決策を求めていては
ただの対処療法にしかならないので、
本当の意味で、問題解決にはならない。

根本の原因を
探っていかないといけない。

そのへん本講座でも
深くロジカルに入っていくあたりがさすがで
たいへん勉強になった。

かつてマツには
3大害虫と呼ばれるものがいた。

・カミキリムシ
・ゾウムシ
・キクイムシ

この3つのうち、
ゾウムシとキクイムシは
枯れたマツをかじる。

ということは、
生きた松をかじるカミキリムシが原因で
枯れるということになるけど、

どうしてかじるくらいで枯れるんだ?

と普通に誰もが思う。

そこで、原因をさらに深め、
松くい虫被害の犯人を
突き止める。

突き止めたのはいつだったか忘れたけど、
九州大学の徳重教授と清原教授により
マツノマダラカミキリと共生する
マツノザイセンチュウを発見し
このセンチュウが原因で
マツが枯れることがわかったのだという。

センチュウの話もなかなか興味深かったけど、
そのへんの土壌にうようよいる生き物だそうで、
山本先生が中国の砂漠で試しに採取しても
センチュウは潜んでいたのだとか。

それぐらい身近な生き物なのだけど、
マツノザイセンチュウはマツノマダラカミキリの触覚の先端や
カラダの横にある穴に潜み、カミキリムシがマツをかじるときに
移動するらしい。

だいたい1匹のカミキリムシに2万匹ほどの
センチュウがいるというから驚き。

センチュウは昔からいるのだけど、
マツに被害はでなかった、、、

では、なぜ急にマツの被害がでるようになったのか?

そこで歴史を振り返る。

マツノザイセンチュウは
1905年に長崎から発生したことがわかった。

さてさて、1905年は何があった年だろう?

そう、日露戦争。

この年に軍用資材としての
木材を輸入し長崎に置いておいた。

その木材に潜んでいたセンチュウと
日本のセンチュウが見事、国際結婚し、
誕生したのがマツノザイセンチュウだという。

要するに、外来種の登場によって
松くいの被害がでるようになったということ。

接種による抵抗性個体の検定や
薬剤散布によるマツ枯れの抑制など
いろいろやっているようだけど、
それなりにコストがかかるしね。

そうそう、さらに興味深かったのは、
接種による抵抗性の個体だけど、
これは実は

成長の遅いもの


ではないかという仮説があるらしい。

センチュウにやられるのは、
成長の早い生き生きしたマツ。

現代社会では働き盛り突然死
なんてよく言われているけど、
植物の世界でも選ばれているのは、
成長の遅いもの。

ガンガンいくのではなく、
ゆったりぽっちりいくのが
今の時代にあっているのだと
植物が僕たち人間にも教えてくれているように感じた。

実習だけでなく、こういった座学から得られる知識や考えも
今の時代を生き抜く糧となるように思う。

明日から出張で秋季講座にはもう参加できないけど、
これからの山人塾が楽しみだ。

では、今日はこのへんで。

また明日ね。


島田晋輔

PS)

今日の一曲はこちら、、、


PPS)

親指シフトトレーニング24日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。


知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たちの理性に耳を傾けることもせず、ひたすら理性を自分の気質や利害や党派の都合にあわせるだけの人たちに見られます。この種の人たちを見ていると、彼らはしばしば、いかなる判明な観念とも結びついていない言葉に満足しています。もっとも、自分たちが偏見のない中立的態度で接する別の事柄に関しては、理性に対して素直になることを阻むような隠された欲求を持っていなければ、彼らは理性的に語り、理性の声に耳を傾ける能力を持っているのです。
 3.第三の種類の過ちは、誠実に理性に従う用意はありながらも、幅広い、健全な、調和のとれた感覚とでもゆうべきものを欠いており、そのため当面の問題に関連があり、問題の解決にとって重要かもしれないすべてのことがらを十分に見通せない人たちに見られます。私たちはみな近視眼的で、実にしばしば問題の一面しか見ていません。私たちの視界は、その問題に関連するあらゆる事柄には及びません。この欠陥を持たない人はいないと私は考えます。私たちは部分的にしかみず、部分的にしか知らないのですから、そのような部分的見解から正しくない結論をだしたとしても不思議ではありません。この点を考えると、自分の才能にひどく自惚れているような人物でも、ほかの人たちと話をし相談することが



今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。

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