Walk on the Wild Side

「なぜか涙が出てしまいました。」

智頭合宿参加者の感想シリーズ。

今日はsweeperささささんです。

どうぞ、、、


智頭合宿の感想





今回の目的は、身体性を伴う新しい体験をするための合宿であるということ。



スキルやノウハウではなく、あり方。

自分の在り方を見つめる活動である。



島田さんの廃校オフィスに訪問。

廃校オフィスと言われていたので、もっと古びた感じの外観をイメージしていましたが、なんとも温かみのある、昔ながらの風合いで柔らかい印象だった。

教室の中は智頭杉の無垢板が敷き詰められ、窓からさす日差しもありとても暖かなオフィス。というより、リラックススペース。



到着して自己紹介もそこそこに、隣のタルマーリーに移動。こちらのパンはイースト菌を使わずに、天然酵母で発酵させ作る。

島田さんのブログでは度々紹介されていて気にはなっていたものの、まさかこんなに早く行くことになるとは。

パンもビールも他では味わえない素材の柔らかいあまみ、野菜の甘みや旨み食感などが存分に味わえる、優しくておいしい食べ物でした。



ビールが入ったところで、緊張がほぐれ場の空気がゆるんだところで、再び廃校オフィスで質問タイム。





ある参加者の質問に対し、

島田さんの、本業城ドラ、副業いろいろ。



この言葉を本人の口から聞いたときに、あーこの人はほんとにこれを本気でやってるなぁと言う印象をうけました。



この後に職業についての話が出たのですが、職業というか肩書ですかね、自分に肩書きを持ってしまうとというか与えてしまうと、その枠の中でしか仕事ができないようになる。そんなことをいわれていたように思います。



大事なのは自分にできることをやり、相手に寄り添うことだと言うふうに言われていたと解釈していますが合ってるのかな。



(ゆるく、たのしく、てきとーに。)

これいいなぁ。最近時間に追われて窮屈な思いをしているわりに成果が出ていない。

なのでこのフレーズはすごく響いた。



昔はてきとーな感じで生きてきたはずが、いつの間にかいろんなものに縛られ、背負う物も増え、だんだんと視野が狭くなり、常に力みっぱなしでずっと走り続けている状態が続き、どこに向かっているかもわからない。

そんな状態が続き身も心も疲弊していた。そんな中この言葉でずいぶん心が緩んだ。





質問タイムも少し間のびしてきたところで、ちょっと気分を変えにタルマーリーへ再びビールを飲み。

店の外の庭で飲むビールはこれまた良いもので、平日の昼間から酒を飲むとあう非日常と大自然の中で飲むという。

いろんな意味で贅沢な時間とともに、引き続きここで質問タイムのつづきを。



「1番大切にしているもの、ことはなんですか?」



この質問を島田さんに投げかけてみたところ、かっこよさと何とか、って何だったか忘れてしまった…。これを聞いたときにちょっと面白いなぁと。



最近小野さんに1番大切なものを1番大切にすることが必要。と常々言われていたので島田さんが考える大切なものを質問したつもりが、意外な答えで少し拍子抜け。



その後、各参加者の1番大切にしていることを順に聞いていく島田さん。この時、正直はぐらかされたのかなぁと思ったけれども、実は相手の考えを上手に引き出すために考えながら話を組み立てられているのかなあとも見て取れた。



必要以上に自分を語らずまた大きく見せようともせず、相手が必要とするものをその時々に相手にわかりやすく語りかける姿勢は、ただただすごいなぁと。





まぁこの質問の答えというのは、1番目と2番目は人間というものは取り繕うもので、格好つけてよく見られようとするあまり本音で語らない。

じつは本当に大切にする事は、3番目であると言う話をされていた。



なるほどなぁと、深くうなずいてしまった。

本日のお宿は公民館というか、とても素敵な佇まいの建物。



出張料理人の幸田さんという方が招かれてすでに晩御飯の支度が始まっていた。



この方は食材から食器まで持ち込みですべてのことを自分でされる。

食べる野菜食べるお肉そして自分が住む家に至るまで、自分で全て作る。

電気ガス水道に至るまで自給自足で調達していると言う話を聞いたときにはびっくりした。



勝手な想像ですが、野性味あふれる大皿料理かなと思っていたら、意外にも繊細なコース料理というかなんというか。



採れた素材の話をしながら、皿の空き具合を見ながら上手にサーブされていく。

中でもイノシシのタンという、あまりお店には出回らない食材が出てきたことに驚いた。



料理もお話も一級品でした。



うまい料理を作る人は世の中にたくさんいるだろうけど、自分の価値観をしっかりと持っている人は少ないと思う。



印象に残った言葉は家も頼めば1,000万円近くお金がかかるわけだが、自分でやることによってその分自分の手にそれだけの価値の仕事(技術)が手に入り、家も手に入るしね。

というふうに言われていた。



これには素直にすげーって思いましたね。





そして2日目、あまりの寒さと建物の前を通る大型トラックが通過するたびに大きな音で目が覚める。



この日は朝の5時からランニング、と言う話だったはずだが当の本人、小野さんは夕飯の*****がきいたのかまだ起きていない。

(内心ほっとしました。)



みたき園で昼食。

前日島田さんが、入り口からご馳走、というふうに言われていたが到着して納得。

時代劇のロケ地というか、昔話の世界観。



そんな空間。



敷地内は最低限人が通れるようにしているだけで、ほぼ自然のままに、そしてその中に古民家があり、敷地の奥には滝があった。

これはご主人がお酒を飲みながら眺めるのに作られたそうだが、酒飲む為に滝をつくるなんて…



女将さんが現れ、ここの料理はすべてのものが地産地消で用意され、化学調味料を一切使わず、おだしは、にぼし昆布、鰹節でとられたものを使い、昔ながらの自然な調理方法で作られているとお話しされていた。



日本の古き良きものを伝えるためのいや伝えていく場所なのかなぁ。





きなこもちでもいかがと言う女将さんのお誘いで、場所を移し囲炉裏を囲みながら女将さんの話に耳を傾ける。



誰も理解しないようなことをご主人が始めたところから40数年、今でこそこうしてお客さんが遠くから足を運ぶようなお店になっているが、はじめの頃は苦労が耐えなかった。



でも、辛いときでもつらいとは言わかった。という話をされていた。



この言葉に気づかされることが最近ありました。







家族のあり方、昔ながらの3世帯揃って暮らすと言う話をされたり、家族皆それぞれの役割があったこと。



うちは生まれる前からすでに両親の親とは別居しており、祖父母との暮らし、役割は、知らないことわからないこともたくさんあったので大変参考になりました。



昔は囲炉裏で暖をとり、食事をしてと、囲炉裏は家族をつなぐ場所でもあったという話を聞けた。



現代は、個部屋がありエアコンがあり、個人のパーソナルスペースを確保するのが当たり前だと言うような考えだが、本来家族というのはこういった共有する空間というかコミュニティースペースがあるべきなのかなーと感じました。



みたき園での食事を終え、植林イベントに参加させていただきました。



ヒガンザクラ、と言う品種の苗を植えさせていただき、途中樹木医の方の話を聞きながら、土に触れ自然を感じ、なんともゆったりした時間を過ごしました。



その中で気になったのは、子供がのびのびしていること。



やりたいようにやっている

親もそれを好きなようにやらせている

そんなふうに見てとれました



自分自身もどうしても子育てをしていると、見守ると言う姿勢を持って見ているつもりが、ついつい手を出してしまいます。



ですが、この地域の集まりで見て取れたのはそういったものだけでなく、やりたいようにやればいいんじゃないかなって言うような、そんなゆるい雰囲気が見てとれた。







2日目のこの日の夜は、鳥取県から少し離れ岡山の西粟倉にある元湯という宿泊と温泉と食事が楽しめる所でお風呂と食事を楽しむことに。



ここではスペアリブとビール。

それだけではなく島田さんからの5つの愛?のはなしがはじまりました。

5つの愛というか、愛には5つの表現があるよねという風な話だったと理解しているのですが、

これは男女の関係だけではなく人とのコミニケーションにおいても重要だと。

この大事にしているものがずれていると噛み合わない、うまくいかないと。



自分が何を大事にし、何を大切にしているのか、深く考えさせられる時間となりました。







宿に戻り、小野さんと自分の今置かれている立場について話をする時間をとっていただけたのは大変有意義でした。

現状から一歩踏み出すために、やるべきことがすこし見えてきました。

明け方までありがとうございます。





自分が今やっていることをこのままやっていていいのか、この先に求める暮らし、求める結果があるのか。迷いと不安がある中でこの合宿に参加をし、自分のコアの部分を明確にしたい。



そんな思いから小野さんと行動を共にすることを選び、この合宿に参加しました。



最終日の朝から行われたディスカッションでは、この三日間を通してずいぶん心がほぐれたのか、なぜか涙が出てしまいました。

最近、いつ泣いたか覚えてないくらい久しぶりです。





しかも、自分で話していたことも忘れてしまいましたし。





今まで押さえつけていたものがスッと、なくなってしまった感じがしました。

自分の本音と違う生き方をしていたのかなと今になって思います。

ただ、自分の本音が何なのか見つかったわけでは無いのですが…

そこはもう少し自分を見つめ探してみなければならないかなと思います。







この合宿を終え、ゆるく楽しく適当に、この言葉の意味がわかったような気がします。







この後都会に戻り、信号機にコントロールされている自分に気がついたり、エスカレーターにコントロールされているなぁとか思ったりする自分を感じ、今までそんなことを考えたこともありませんでしたが、これもまた新たな発見でした。









この三日間は、五感で感じる。



新しい体験をして、忘れていた記憶、感覚がぼんやりよみがえる。



そんな合宿でした。



しらずしらず、自分の本音を押し隠し、ふたをして生きていることに気がつきました。



もっと自分に素直に生きようかな。

【ゆるく、たのしく、てきとーに】









また戻ってきたいふるさと。

智頭はこころにもからだにもいいところでした。





もともとは島田さんのブログから小野さんを知り、小野さんと行動を共にし、島田さんに会うこととなりました。



都会ではなく、智頭で暮らす普段のままの島田さんに会うことができてよかった。





小野さん、島田さんありがとうございました。







p.s.最終日のジャケット、色づかいがいいですね。



さささん、ありがとうございます。

僕のブログがきっかけで小野さんを知り、
小野さんのグループに入って、
智頭でお会いするなんて
縁を感じました。

城ドラのチームwildsideにも
入ってもらったので、
これからもゆるく楽しんでいければ。

今日はこのへんで。

ではではー。


島田晋輔

PS)

今日の一曲はこちら、、、


PPS)

親指シフトトレーニング20日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。


知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)


第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に
関する事柄や、言論や意見に依存する技術においては十分役立つこともあるかもしれないが、自然の実際の働きの微細さには到底及ばないものだったからである。しかも、手が届かないところにあるものをつかまえようとしたために、それは真理への道を開くことなく、逆に誤謬の追認と固定化を助長してしまったのである」。こう述べた少し後で、卿はその結論を次のように述べています。「心と知性を使用するための、より優れたより完璧な方法を導入することが、ぜひとも必要である」。


第二節 才能

 人々の知性には、明らかに大きな違いがあります。なかには、生来の体のつくりが技術や勤勉では克服できないほどの大きな差を知性に生み出し、他の人たちが容易にできることを達成するだけの基礎を自分の生来の資質の中にもっていないように思われる人たちもいます。平等な教育を受けた人々の間に、才能の大きな不平等があります。また、アテナイの学校だけでなくアメリカの森が、同じ種類の人間の中に異なった能力をもった人々を生み出しています。しかし、たとえ実際にその通りであるとしても、私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をおざなりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達していません。この件については、わずかの論理学の規則があれば、最高の改善を目指す人たちにとってそれで十分である、と考えられています。しかし私は、知性には、矯正できるような多くの自然的な欠陥があり、それらが見過ごされ、全くなおざりにされているのだと思います。しかも、容易に看てとれることですが、人々はこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬のなかで一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意を向け、適切な治療法を示すつもりです。


第三節 推論

 人々は、確定された観念をもたなかったり、媒介項となる観念を探し出して整然と並べるだけの鋭敏さをもっていなかったり、その訓練を受けていないことがあります。しかし、そのほかに自分の理性に関して、三つの過ちを犯してしまいます。これによって理性という能力は、その役目や目的を果たすことができなくなります。人間一般の言動を反省する人は、この種の欠点がかなり頻繁に観察されることに気づくでしょう。
 1.第一の過ちは、およそ理性的推論などすることもなく、他人の例にならって行動し考える人たちに特有です。そういう人たちは、自分自身の力で考え検討するという苦労を避け、両親や隣人や牧師、そのほか誰でも自分の好きな人を選び、その人の言うことを信じきってしまいます。
 2.第二の過ちは、理性の代わりに情念を用いる人たち、しかも、情念こそが自分の行為や議論を支配すべきだと決め込み、自分の理性を用いることも他の人たち


今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。

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