Walk on the Wild Side〜ワイルドサイドを歩こうよ〜

選び方で生き方がわかる

have,do,be。

havingやdoingより
being。

大切なのはあり方であり、
ロマンである。

あり方やロマンはつまりは
生き方ともいえる。

とは、わかっていても
どうやってその人の生き方をみるのか
と気にしている人は多いだろう。

僕がみているのは、、、

なにを選んでいるのか

というところ。

今の自分は選択の連続であることは
間違いないだろう。

この人といっしょにいたくて
結婚したという大きいものから、
から揚げ定食よりきつねうどんを注文する
という小さい選択まで、日々、僕たちは
選択の連続のなかで生きている。

見方を変えれば選択させられているとも言えるが、
最終的に決めたのは自分なのだから、
最後の最後の責任は自分にあると思う。

愛知県にいるころ、ちょっとばかり
ひふみが保育園に通っていたことがあるが、
ある日、原因不明の骨折をして帰ってきたことがある。

しかも、足のスネの骨をおるという
そんなに簡単に折れないところが折れたけども
原因不明。

理由わからず。

ひふみも小さかったから、
本人もよくわからず。
(ヒアリング不可だったけど、今きけば教えてくれるかな)

保育士さんたちもわからずの
骨折事故だった。

これには当たり前だけど、
奥さんは激怒して、
わりと大きな事故だけど、
なんで足おったのかわからないのか、
原因不明ってどういうこと?
となっていた。

もちろん園長先生と保育士さんが
謝りにきたけど、それよりも理由がわからないって
ことに腹を立てていて。

こういったことは理不尽なようで納得はなかなかできない。

だろうけど、誰しも少なからず
こういったことが経験したことあるはずだ。

これは、さっきの話じゃないけど、
選択したのは自分自身で、
責任があるという一例で。

その保育園を選択し、
そこに連れて行ったのは
僕たち親だからね。

強制されて預けたのではなく、
自ら「選択をして」通わせたのだ。
(まだ小さいから本人の希望なんてないからね)

まあ、これはほんの一例だけど、
目の前におきている良いことや悪いこと
(これも主観的だけど)は全て
選択の連続の結果であって
その責任は自分自身にある
という立場を僕は取っている。

今日のまとめ:生き方は選択にあらわれる

島田晋輔

PS)

今日の一曲はこちら、、、

PPS)

親指シフトトレーニング13日目。

取り扱ってるジョンロックの「知性の導き方」の原文自体は
著作権がきれているので、ここで公開するのは問題ないだろう。

ただ、翻訳や出版に関しては曖昧なので、
しっかりと引用元を明記しておこう。

取り扱うのは、ちくま学芸文庫の下川潔氏の訳のもの。

では、さっそく15分のトレーニング開始。

知性の正しい導き方

ジョンロック著
下川潔訳

間違った意見を保持したり、十分な探求なしに知覚され認識された事柄を少しも疑わずに擁護することほど、軽率で賢人の威厳と堅実さにふさわしくないことがあるだろうか。(キケロ「神々の本性について」第一卷)

第一節 はじめに

 人間が自分自身を導くにあたって最終的に頼ることができるのは、自分の知性です。なるほど私たちは心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。しかし実際には、行為主体である人間が、すでに知性のなかに持っている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自信を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。誰でも、何らかの行為を始める場合には、自分にとって行為の理由となるような何らかの見解うを必ず持っています。人がどのような能力を用いる場合でも、本人を絶えず導いてゆくのは、とはもかくこの光が、本人のあらゆる活動力を導きます。意志それ自体は、たとえどんなに絶対的で統制不可能のように見えても、知性の命令には必ず服従します。神殿にはそれ特有の神聖な像があり、これが人類の大部分にどれほどの影響力を常に行使してきたかは、私たちの知るところです。しかし、実際には人々の心にある観念や像は、目にみえない力として絶えず心を支配し、いたるところで心をすぐ降伏させてしまいます。したがって、知性の扱いに十分配慮し、知識の追求や判断の形成にあたって知性を正しく導いてゆけるようにしておくことが、最大の関心事になります。
 現在使われている論理学は、諸学芸の研究において心を導く技術として学問の世界で教えられている唯一のものであり、大変長い間そのような地位を占めていました。論理学の規則は、二、三千年ものあいだ学者の世界に奉仕し、学者が欠陥があると不平を言っていたこともないものです。したがって、その規則によって知性を導くのでは十分でない、と疑念を表明すれば、おそらく新奇さをてらっていると思われるでしょう。そういう試みは、かの偉大なヴェルラム卿の権威によって正当化されでもしなければ、虚栄心や思い上がりであるとして避難されるに違いありません。卿は、学問は何世紀も進歩しなかったのだから、過去の過去のあり方を超えてもうこれ以上前進することありえない、という奴隷的な考え方をしませんでした。過去の学問のあり方を、過去においてそうであったという理由で怠惰に是認したり賞讃して満足することもありませんでした。そうではなく、ヴェルラム卿は心を広げて学問のありうべき姿を考えました。論理学に関する著『ノヴム・オルガヌム』の序文で、卿は次のようにはっきり述べています。「論理学にこれほど大きな役割を認めた人々は、知性を規則によって保護せずに、それを働くままにわ放置しておくのが安全でないことを、確かに見事に正しく見抜いていた。しかしながら、この治療法は病を根治することなく、むしろそれが病の一部分になってしまったのである。というのも、用いられたその論理学は、市民生活に

今日のトレーニングはここまで!

この公開トレーニングは、これによって何か特別な利益をえようとしたり、
利用したりといったものではなく、自分のコミットメントの純粋な記録として。

すべてのブログ記事に言えることだが、
誰かを不快にさせようとか、
悪意があるものはひとつもないので、
ここに強調して明記しておく。



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